50 水晶妃-氷と狼の物語-

 

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舌の表面が乾くほど 長々と口を開けた後で 

小此木は ようやく顎をおさめて 眼前の虚空へ問いかけた。


「旦那様?」

「・・・」

やがて 呆然自失の壁から じわじわと理解が染み出してきて
生涯最大値まで開いた小此木の眼は にんまりと細い弧を描いた。

 


イ家の執事は 狼狽などしていないかのごとく静まっている。   

かつての強面軍人は その怜悧な横顔へ 言い聞かす声で呼びかけた。

「旦・那・様」


白皙の頬が固かった。 ジホは ゆっくりまばたくと
感情を消した顔で振り向き 小此木をひたと正面に見据えた。

「・・・」

 

当家の“奥様”を ご紹介いただけるだろうか?

「・・・」
「ご子息もおられる様子だが 是非とも尊顔を拝したいものだな」
「・・・」


生きていれば こんな奇跡に出会える日もある。

意地悪く狼をいたぶりながら 小此木は胸を熱くしていた。
・・御大、ご覧になっておられますか? 水晶は こ奴を夫に選びました。

 

ジホは音もなく立ち上がり 座敷の隅に置かれた電話を取った。

「奥様をここへ寄越してくれ ジウォンも一緒に。 ・・あぁ 中将の間だ」
「!」
「そう 今すぐに。 小此木中佐がお待ちだと伝えなさい」

「・・・」


受話器を置いた狼は やがて 観念したように息を吐いた。

「・・かような次第で」

「“中将の間”なのか? この座敷は」
「瀬尾様は この部屋がお好きでいらっしゃいました」

「そうだな・・」

 

避けようもなく 破滅へ続く血塗られた道を 歩いておられたあの方が
地獄でしかない道程で見つけた 真っ白な 気高い花の咲く場所。

轟々と鳴る風に牙を剥き 四肢を張りつめた狼が 花を護って立ちはだかる聖域。


「あの頃。 唯一 御大が心から笑えた場所だった」

「・・・」

永い時を隔てて 再び出会った2人の男は 
昔日を思っては黙り込み また 今の時間を紡ぎはじめた。

「どうやって 水晶とお前が結婚することが出来た?」

「・・・」

 

ジホの沈黙で静まる部屋に 小走りに来る軽い足音が聞こえた。
相変わらずの 行儀の悪い音を聞いて ジホの口元がゆるくなった。

「・・姫様は こうと決めたら引きませんから」


そして小此木の細い眼は 笑みとまぶしさで糸になった。

まつげを伏せた狼が ふわりと愛しげに微笑んだ。

 

 

「奥様が参りました」

侍女が小さく声を掛けて 廊下から静かに戸を引いた。
小さく開いた戸のすき間には あどけない男の子が立っていた。


「・・・ぉ・ぃ・・」

「・・・」

「器用な男だとは思っていたが。 貴様は 細胞分裂で増えるのか?」

思わず破顔した小此木は からかわずにはいられなかった。
眼の前で不思議そうな顔をしている子は ジホのミニチュアにしか見えなかった。

 

「ずるいと思わぬか? 私が腹を痛めて産んだのに」

「?!」

「おお ほんに小此木中佐殿だ! よう参られた」
「・・・水晶・・」
「相変わらず 眼が開いておらぬな」
「!」


・・は・・・はは・・・・、  あっはっはっはっ!!

こみあげる想いに堪えきれず 小此木は大声で笑い出した。
幸せであれと祈っていたが 姫様は ここまでやってのけたか。


「変わらぬな 水晶。 相変わらず絶世の美人だ」

「お?!小此木殿は随分お変わりだ。岩の如き無口が 世辞を言うようになった」
「軍人を辞めて商人になったからな。 ハハ・・」

 

解き放たれた過去の時間に 小此木はうっとりと酔いしれた。

この 氷の眼をしたまっすぐな娘を 御大はどれほど愛しただろう。


「本当に久しぶりだ。 またこの場所で会えて 嬉しい」
「中佐殿も よくぞ達者でお過ごしだった」

「あぁ・・」

きらきらと喜びに輝く黒曜石の瞳が 突然 揺らいで涙ぐんだ。
小此木の向こうにいつも居た人の不在が 重い事実を告げた。


「中将閣下は。 ・・・ご立派であられたのだろう?」

「お見事だった」
「・・そうか」

水晶がぎこちなく自分をなだめるのを 小此木は切なく見つめていた。

この美しい娘と御大は 動乱の中で 奇跡のように心を通わせたのだ。

 


・・アボニム・・?

「?」「!」

幼い声に その場の注意が集まった。 
ジウォンはきょとんとつぶらな眼を 父親へ向けて立ったままだった。


「ご挨拶を忘れていたな ジウォン」

「はい」
「父と母の 古いお友達の小此木様だ。ご挨拶をしなさい」
「はい」

こくん と生真面目にうなずいた子は 小此木へ向くと
小さな身体を丁寧に折って 思わず微笑んでしまうようなクンジョルをした。

 

「これはこれは・・。 立派なご挨拶に痛み入る」

小此木は 居並ぶ軍人を嘆息させた水晶妃のクンジョルを思い出して
顔をほころばせた。 あの日は 既に遥かだった。

あの日の未来に 幸せが こんな時間があったとは。
この場所にたどり着けなかった人たちへ 小此木は心で語りかけた。

「イ・ジウォン です。 はじめて おめにかかります」

 

イ・ジウォン? 

ではイ本家の正式な跡取りか? あの親戚がよく納得したな。
小此木は 我ながら可笑しかった。 まったく これでは詮索好きな年増だ。


「水晶。 朝鮮には入り婿の習慣がないだろう?」

「そうだ。だが ジホは族譜が不明ゆえ 子は私の籍へ入れた」
「お前の ・・例の親戚も それを認めたのか?」
「むろんだ」


ジホはな・・。 
スジョンは 大輪の花が咲くような満面の笑みを浮かべて言った。 

「ジホは 私がどうしてもと願ったことは どんな不可能も叶えるのだ」

 


せいせいと スジョンの声は澄み切っていた。

愛した男を一片も疑わない潔さに 小此木は顔をほころばせた。
ジホは もはや平静をあきらめ 居心地の悪そうな顔をしている。

「居心地が悪そう」だと? あの狼が。 

ここに御大がおられたなら どれほど喜ばれることだろう。


「そうだ。 水晶に土産がある」


———

 

鮮やかな絹を肩へかけると 水晶は さながら天女に見えた。

終戦はふた昔も前になり 硬質な 少女らしい透明感が美しかった娘は
今や盛りと咲き誇る艶やかな美しさを身にまとっていた。


「綺麗だな。 日本の絹はなめらかで 肌理が細かい」

「朝鮮の着物は 紗のように張りがあるからな。 ・・気にいったか?」
「うむ! だが 閣下がこれを私に下さったのか?」
 
そうだ。 ただし1つだけ 問いに答えられたらだ。

「?」

からかうように眉を上げて 元中佐はジホを横眼でねめた。
ジホは 初めて見るような不器用さで 無表情を装っていた。

 

 


“水晶妃。 そなたは 今 幸せか?”


それはおそらく 逝った人が 虚空へ聞いてみただろう問い。

敬して止まない大きな人の思いをまとって 小此木は聞いた。
返事より先に 水晶がとけるように笑むのが嬉しかった。

 

「幸せだ。 ・・しかし それが問いなのか?」

変な問いだな? 聞くまでもなかろうに。 

「そんなことでお宝を頂けるのか? ずいぶんと儲けた話だな」

瞬時も惑わず あっけらかんと水晶は答えて 満足そうに口の端を上げた。
小此木は悠然とうなずきながら うろたえる狼を堪能した。

 


“瀬尾中将閣下”

“水晶は 自分の望む結婚をして 「幸せ」と迷わず言い切りました”

貴方の 多分最後の指令を 狼は見事に遂げたようです。
小此木は心中で敬礼をした。 “・・最終指令の結果報告を これで完了致します”

 

愉快な気持ちに突き動かされて 小此木はジホをいじめたくなった。

「本人に聞かねばわかりません」だと? 
よくも言ったな。 くるむように妻を大事にしているくせに。

 

「・・しかし水晶。 この家の執事は 以前に確か言ったのだ」

「ん?」
「当家の姫は 世が世なら 王妃にもなれる御方だと。
 見たところ貴女の夫は王でないようだが それでも やはり幸せか?」
「?」「!」

小此木の意図を瞬時に見抜き ジホがこちらを睨みつけた。 頬が少し紅かった。
糸眼の元軍人は 平和な世の局地戦を楽しんでいた。

 

「中佐殿は 考えが足らぬな」

「何と」
「王など国の数だけおる。誰かに国が奪われれば 何の力もなき者ばかりだ。
 そんな王の妃になるが ほんに得策と思うておるか?」
「・・・」

「ジホは 国を創れる男だ。もしも 私が王妃を望めばな」

「水晶は 王妃を望まぬか」 
「堅苦しいのは好かぬ。 ジホが今より忙しくて 私をかまってくれないと困るしな」

 

・・・ス、スジョン・・


“百鬼”の元情報将校に これ以上誘導尋問させまいと ジホが小さく妻を諌めた。

その遠慮がちな優しい声音に 小此木は危うく吹き出しかけた。

 

 

 

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