48 水晶妃-氷と狼の物語-

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自分で子どもを育てると決めたスジョンは 一歩も引かずにそれを実行した。


深窓の姫として育った彼女は 普段 あまり我がままを言わない。
執事や侍女頭の決めたことにまかせて おっとりとしていることが多い。


しかし 一度スジョンがその気になれば 

イ本家の正統な血を引く「当主」に 逆らえる者がいるはずもなく

自分流の子育てを満喫するスジョンの周りで 侍女や使用人たちが
右往左往するという図式が イ家の日常になっていった。

 

 

「・・・」

「・・・」


書類をめくるかすかな音が 執務室に響いていた。

侍女頭のインスクはお茶を運びながら 不満げにジホの横顔を探り見た。


端然と静まり返った主人の頬は 氷の様に冷ややかだった。
怜悧な目元に ほんの少し不機嫌の影が差していた。

・・・難しい顔を しなさっているねぇ・・


インスクは それと解らないほど 小さくあきらめの息を吐いた。

時には 息子へ言うように横柄な口をきくこともある彼女だが
今日のジホは 帝王の如く 傲然と周囲を遮断している。


諦めきれないインスクはしばらくの間 主人の横顔を窺っていたが

やがて力なく首を振り 執務室から退がっていった。

 


・・・・あ・・のぉ・・・だ、旦那様・・・?

「?」

侍女頭が去ったことを眼の端で確認して 内心ほくそえんでいたジホは 
部下の声に顔を上げると 眼前の男が 青ざめて震え上がっていることに気づいた。


「どうした?」

「いっ、いえ! あのっ! どうか・・しましたか?」
「うん?」
「対処は ご指示通りに出来たと思いますが。 な、何か問題でも?」

「?! あぁ・・、いや問題は無い」
「え?」
「よくやってくれた。ご苦労だったね」

「・・・は・・ぁ・・・」

 

 

ジホは 廊下を進みながら 「今日の事件」は何だろうかとため息をついた。


・・・ジウォンを連れて また樹にでものぼったか。
とんでもない物でも食べさせたか。


不満ではちきれそうなインスクを見れば かなりの事をやらかしたのだろう。

しかしまあ 不機嫌を装ってみせると 渋々引き下がったところを見れば
とりあえず 我が息子は今現在 無事ということなのだろう。


ふ・・・

平和といえば平和なことだと ジホは柔らかく微笑んだ。

第二次世界大戦に続き 南北を分けての韓国戦争、
軍事クーデターを乗り越えて 韓国は ようやく落ち着き始めていた。


——–

 


寝屋では すねた上眼づかいで スジョンがしっかり息子を抱いていた。

インスクに叱られて 奪われそうになったのか 
離すまいと我が子を抱きしめている。


隣へ座ると いつもなら得意げに ジホへ息子を差し出す妻が

疑わしげな表情しているのを見ると 叱られると思っているようだった。

 

「何か やらかしましたね?」

「聞いておらぬのか?」
「インスクは言いたそうでしたが 打合わせをしておりました」
「・・・池に 落としての」

「池?! ・・ジウォンをですか?」


ジホは思わず 中庭の 見事な鯉が泳ぐ池を思い浮かべた。
湧き水が滔々と踊る池は イ家自慢のものだった。


「だがな もちろん! すぐに飛び込んですくいあげたぞ!」
「飛び込・・! あの・・貴女がですか?」
「当然だ」


それでは 忠義な侍女頭が湯気を立てて怒るのも無理はない。

インスクの 命より大事な2人が 仲良く池に落ちたのでは。


「しかし どうして池になど?」

「“金老人”が出て来てな」
「・・金色の ドイツ鯉ですか?」
「うむ! きらきら光るからジウォンが喜んでな。よく見せてやりたかったのだ」

「・・・」

「絹着なので手が滑ってしまって・・。 でもな!ジホ! ジウォンは泳ぐぞ!」
「え?」
「慌てて飛び込んですくおうとしたら 水中のジウォンと眼が合ったのだ」


水へ沈んだ幼いジウォンは 一瞬だけ 驚いた顔をすると
次にはグンと水を掻いて スジョンの差し出した腕の中へ泳ぎ上がって来たという。

「私が呆然と見ていたら こやつは泣きもせなんだ」

「・・・」

「侍女達が悲鳴をあげて寄って来るから 驚いて泣き出したのだ」
「動物は皆 教わらずとも泳げます。 ジウォンも まだ半分の人間ですから。
 自分が泳げないと思っていなかったのでしょう」

「そうか・・。 なら 今のうちにジウォンに泳ぎを教えるか?!」


ふ・・・

きらきらと瞳を輝かせて息子を抱き上げるスジョンに 狼の眼が優しくなった。
こんな顔をされたのでは たしなめる事も難しい。


「インスクを あまり心配させませんように」

・・・う・・ん・・

「でもなぁジホ。 私はジウォンに この世界をたくさん見せてやりたいのだ」
「世界を?」
「うむ」


両班の子などというものは 深井の中に居るようなものだ。
少しでも雨が降ったり風が吹けば 侍女達は 心配して外にも出すまいとする。

「子どもの頃から 私は ジホが大好きだった。それは何故か知っておるか?」

「いいえ?」
「お前は 私に世界を見せてくれる たったひとつの窓だったのだ」
「ま・・ど」


樹にのぼること、草を鳴らすこと、風へ凧を飛ばすこと。

侍女ならばきっと許さぬ世界を お前は私に教えてくれた。
それから 書物の中にもまた大きな世界があることもな。

「・・・」
「私には お前が世界だった」
「・・・」 

 

紅潮した頬を輝かせて話すスジョンの言葉は 呆れるほど ジホの胸を打った。


・・姫様に そんな風に言われるような事じゃない。

野良犬の様に生きていた 14歳の粗野な悪童は
人形よりも美しく 高貴な少女を どう扱っていいのか解らなかったのだ。

樹のぼりに 草笛だと? この名家の姫様に・・。


常識の出来た今であれば 決してしないことだろう。
無知で無謀な14歳の俺は それでも 美しい少女を喜ばせたかったのだ。

 

「だからな。 今度は私が ジウォンに世界を見せてやりたいのだ」

「・・・」
「今度からはもっと気をつける! ・・ジホ?」
「・・・」
「怒っておるのか? ジウォンを危ない目に合わせたから?」

「・・・」


おずおずと自分を探り見るスジョンに ジホは柔らかく微笑んだ。


「・・今夜は ジウォンを乳母に預けませんか?」

「?! ジウォンは 私が育てる!」
「もちろんです。 ただ・・」
「もう絶対! 池に落としたりせぬ」

 

そんな事は平気です。 家の池は水も清いし 大した深さもありません。
貴女がそばについていて 眼を離した訳でもないのですから。

「・・ならば どうしてこの子を乳母に預けろと言う?!」

怒るスジョンにジホは笑い そっと手を伸ばして頬を撫でた。 
今夜は ジウォンを乳母へ預けて。 

「・・・私の妻をしてくれませんか?」
「?!」
 


照れたようにうつむくジホを スジョンは眼を丸くしてまじまじと見た。
ジホは ぎこちなく眼を上げると 精一杯の言い訳をした。

「“次”も 欲しいでしょう?」

「!」

スジョンは息子を抱えたまま ジホの胸へにじり寄った。
ジホが 子どもごとスジョンを抱くと とても窮屈な抱擁になった。


そして 溶けるような笑みを浮かべると スジョンは侍女へ呼び鈴を振った。


——–

 


満ち足りた時間は 飛ぶように過ぎた。


韓国はベトナム戦争に参戦する一方 諸国と国交を回復させ
日本の多大な投資を受けて 「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げていた。

ジホの率いる企業もまた 日本とのビジネスを拡大していた。

そんなある日。 部下の報告を ジホは首を傾げて聞いた。 

 

「三友商事? ・・あの大手商社か?」

「はい。 『晶李』特命と言う事で 引き合いを貰いました」
「特命? こちらから営業をかけたのだろう?」
「はぁ・・。 最初は そうだったのですが・・」

営業の担当が会社概要の書類を提出した後で 突然 呼び出しがあったという。

 

「何でも 先方の重役が『晶李』との取引を強く希望したそうです」

「重役がか?」
「三友でも ヤリ手で鳴らす専務だということです」
「何と言う名だ?」


ええと。 こちらの取引書類に 確か署名がありました。 

「・・これは 何とお読みするのでしょうか?」

「!」

部下から書類を受取ると ジホは 示された署名を読んだ。
そこには 決して忘れる事の出来ない 懐かしい人の名前があった。


——–

 

その人が出張でソウルへ来る日。 ジホは 総ての仕事を休んだ。

想像通り その人は手早く取引先の見学を終えると
「ソウルで一番美味い料理を出す家」に 案内を請うたという。

 

部下からの連絡を受取ると ジホは みずから玄関に立った。

あの遠い日に 初めて 彼らを出迎えた時が蘇る。

 

イ家の豪壮な正門が開き 前庭にはずらりと迎えが並んだ。

やがて ジホの差し向けた黒塗りの高級車が ゆっくりと門を通り抜け
ショーファーの開けるドアの中から 壮年の紳士が降り立った。


長身の彼は しばらくの間 黙って周囲を見回した。

昔と少しも変わらない 何も見逃さぬ刃の眼差しに ジホは思わず口元を緩めた。

「伏兵など 配しておりません」

「?」


「終戦からずいぶん経ちましたのに まだ 警戒を解かれませんか?」
「・・・ここは狼の根城だからな。簡単に気は抜けないさ」

紳士は 糸のように細い眼をさらに細めて笑顔になった。
その懐かしい微笑を ジホは万感の思いで見つめた。


「元気そうだな」

「お久しぶりです 良くお越しくださいました」


“小此木様”

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