47 水晶妃-氷と狼の物語-第47話

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スジョンと会った初めての日に ジホは自らの運命を決めた。

“この宝石を護ること”。 それは 彼が鉄の意志で自らに課した誓いだった。

 

我が子は しかし そうではない。
温かく小さな身体を腕の中に抱いた時 ジホはひどくうろたえた。

ジウォンと名づけたその子は 産まれ落ちた瞬間から 既にジホの一部だった。

驚くばかりに無防備で 人の手がなければ生きられないもろさ。
いとけなくか弱い存在が 丸ごとジホに委ねられていた。

 


「?!」

運転手が慌しくブレーキを踏んで ジホは思いを中断させた。
車は 交差点でもないのに 道の途中で立ち止まった。

「どうした?」

「申し訳ありません。先の広場でデモをしております。回り道をしませんと」
「・・デモ?」


車がゆっくりターンする間 ジホは遠くにデモ行進を見た。

経済が困窮する中で 有効な手が打てない政府に不満の声が高まっていた。

学生達は 朝鮮戦争後 いち早く経済を復興させた北を理想として
「『赤化統一』を目指そう」と 大規模なデモを繰り返していた。

「・・・」


スローガンが大書されたプラカードを ジホの冷たい眼が見据えた。

その文字の中の危うさを嗅いで 狼は わずかに目元を揺らした。


———
 


「旦那様!」


夜も遅く 奥へ向かって行くジホを インスクの声が呼び止めた。
ジホは静かに振り返り 侍女を見つめてゆっくりとまばたいた。

「旦那様。 坊ちゃまが 子ども部屋からいなくなりました」

「・・・」
「連れ去られたんです! 本当に こんなことでは困ります」
「・・わかった」


不満を言いつのる侍女頭から ジホはゆっくり眼をそらした。
口では「わかった」と言ってみたものの どうにか出来る自信も無かった。

 

ジホが寝間へ入ってゆくと スジョンは床へ入っていた。

もごもごと動く布団を背にして ジホは黙って服を脱いだ。

困ったものと思いながらも 口元が少し緩んでしまう。
手早く夜着に着替えたジホは 寝台の端に腰を下ろしてため息をついた。

 

「・・乳母に黙って 連れてきましたね?」

たしなめるつもりで言ったのに 口調は さっぱり毅然としなかった。
静かに上掛けをめくり上げると ぬくぬくと温まったジウォンが寝ていた。 

 

乳を飲ませたばかりなのか 赤ん坊からは乳の香がする。

スジョンは息子を胸元へ寝かせて ひどく得意げに横たわっていた。
その様は 美しくも強い獣が 仔と巣に潜んでいるようだった。


「インスクが ジウォンを誘拐されたと怒っておりましたよ」

ジホは ふっくりと紅い赤ん坊の頬に 指の背をはわせて優しく撫でた。

「何が誘拐だ。 母親は私だ」
「子の世話をするために 乳母が置かれております」
「乳母は要らぬと言うたのに インスクが一向聞かぬのが悪い」


ふ・・・

つんと冷たい美貌を見る限り 母性には無縁と思えるスジョンが
我が子に夢中になっていることに ジホは微笑まずにいられなかった。


イ家のような上流の家は 乳母を置くのが習いだった。

子は 経験深い乳母の手で育てられ 母とは別の部屋を持つ。

しかし待望の子を得たスジョンは 慣習に従う気が全くないようで
市井の母子と同じように 自分の手で育てると主張して

インスクが頑固に譲らないと見るや 「実力行使」を繰り返していた。


「何を笑う?」

「いえ・・。 ジウォンは元気そうですね」
「うむ! だが こ奴は眠たがりだな。 起きてもすぐに寝てしまう」
「良く寝る子は 良く育つと申します」
「そうか」

スジョンは機嫌良くうなずくと 身体を引いてジホを招いた。

ジホは ほんの少しためらってから 布団の中へ滑りこんだ。


——–

 


・・こんな姿を見たら インスクは 呆れて怒りそうだな。


すやすやと眠っている2人を 片肘をついて眺めながら 
ジホは 独りで苦笑していた。

両班の家では親子3人が川の字で寝るなどということは 有り得ない。


“名門イ家の旦那様が 威厳も何もあったものじゃないよ!”

そう息巻くだろう侍女の声を 思い浮かべて笑ううちに 
いつしかジホの顔から 笑みがすうっと引いていった。

 

『赤化統一』

先刻見たデモ隊の プラカードの文字が脳裏に浮かんだ。


文民ばかりの政府は学生の暴動を制圧出来ず デモは激しさを増している
社会主義を目指す若者達の活動は まだ大した力は無い。

しかし 学生運動の盛り上がりが ジホには危険なことに思えた。

 

北の思想による統一が 万が一にも現実になることがあったら・・。

旧支配者層である両班が 北でどれ程粛清されたかを思って ジホは眉を曇らせた。
そして今や 野良犬であった自分の息子も 両班の血を引いていた。


ジホは胸元に視線を落とした。 ジウォンは安らかに眠っていた。

手を 打たなければいけないだろう。
夜の闇に身体を伏せて 狼は 眼を光らせた。


——-

 

いかめしい軍部の建物に この男の姿は 奇妙に似合う。


ジホがドアから入ってきた時 中の2人はそう思った。

上質なスーツを見事に着こなす女顔負けの美貌にもかかわらず
研ぎ澄まされた刃を思わせるような殺気が ジホをこの場に溶け込ませていた。

 

「貴君の来訪を 受けようとは思わなかったな」

「・・・」
「今日は どういった用向きだ?」
「・・・」

腹を見せずに探るような 軍人の問いにジホは笑った。

ゆっくり 窓へ歩み寄り 景色を眺めるふりをして周囲を探った。

 

「どこまでご計画になっておられるものか お伺いしたいと思いまして」
「何の事だ?」
「“coup”」

「!」「?!」

クーデターを表す英語を聞いて 思わず気色ばんだ2人は
一瞬の後に 狼が 自分達の意志を確認したことに気がついた。

「やはり お考えでしたね」

 

軍人の手が密かに伸びて 銃のホルダーにそっと触れた。
ジホは悠々と振り返り その動きを見て小さく笑った。

「邪魔をするつもりなら こちらへはお伺いしませんでしょう?」

「・・・加勢する というつもりか?」
「時間をかけてはいけませんね。 短期で決着させましょう。出来れば無血で」
「し、しかし」


・・アメリカがどう出るかが心配なのだ。 軍人が迷いのため息をついた。

奴らは 自分達を無視して 韓国軍が独走することを嫌うだろう。
 

狼は 静かにうなづくと 机上の電話の受話器を上げた。
かねて打ち合わせていた相手を呼び出し 軍人に向かって微笑んだ。

「・・どうぞ」

「?」

軍人は 怪訝な表情でジホを見ながら電話に出た。

受話器の中から聞こえて来た英語に 軍人の眼が大きくなった。

 


5月16日の軍事クーデターは わずか数日で終結した。

突然決起した軍部は またたく間に政権の奪取に成功した。

軍部は政府を掌握すると 大統領を再び元の地位に据え
腐敗政治を行っていた内閣を一掃して 軍部による政権を打ち建てた。


当時のアメリカ大統領だったケネディは このクーデターを強く批判した。

にもかかわらず このクーデターにはCIAがからんでいるという噂が立った。


——-

 


“ジホ! おらぬか! ジホ!”


廊下を鳴らす高い足音に ジホは静かな息を吐いた。

スジョンをたしなめるインスクの声が 騒ぎを余計に大きくしていた。

 

「またっ!ひぃ様! 人が聞きます! 旦那様とお呼びなさいませ!」
「そうだな。 旦那様!」

「・・・」

 

なんですか? 眼を上げたジホは 口を開けた。
ふくよかな胸元を大きくはだけて スジョンが赤ん坊を抱いていた。

慌てて掛けておいた上着をつかみ ジホはスジョンに駆け寄った。


「なん・・早く!スジョン!」

「うん?」
「何というお姿ですかっ?! いったい・・!」
「歯が生えた」
「は?!」

「ジウォンに歯がな。 ほらここだ」
「・・・」
「可愛かろう?」

 

男のジャケットに包まれて スジョンは満面の笑みを浮かべた。

ジホは 妻の華やいだ笑顔と白くはちきれそうな胸を
眼がくらむ思いで見つめながら 言うべき言葉を探していた。

 


 

 

 

 

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