46 水晶妃-氷と狼の物語-第46話

 

siusyo.jpg

 

 

ジホとスジョンの「その時」は ひたひたと満ちながら近づいた。

傍目に ジホは落ち着きはらって 仕事に専心しているように見えた。


だが イ家に古くから仕える者は どんな時にも冷静な主人が
臨月を迎えた妻の身を 呆れるほど案じていることを知っていた。

 


「“9割方は達成”だと? 少しは問題意識を持って欲しいものだな」


夜遅く ジホの叱責が 静かな執務室の空気を斬った。
報告をしていた若い部下は 冷ややかな声に震え上がった。

「前月比10%減を半年も続ければ 業績は始めの半分になる」
「!」
「9割は“達成”ではなく “不調”だろう」

「・・は・ぃ・・」

「現況の問題点分析は 出来ているのか?」


帳簿から上げたジホの視線に 男の喉がゴクリと鳴った。
壁の時計が鐘を打ち ぴたりとジホが動きを止めた。


「・・・・」
「?」

・・・・・・・・

「・・旦那様?」


ジホが 慌ててまばたきをした。 ぎこちなくペンを取り上げると
素早くメモを書きつけて 帳簿にはさんで部下へ渡した。

「ここに挙げた経費を洗い出して 明日午前中に報告するように」
「?」

「今日は ・・もう終わろう」

 

言うなり席を立って去った主人を 年若い部下は ポカンと見送った。
並んで座っていた年長の男は 淡く笑いながら書類を閉じた。

「やれやれ・・。 奥様に助けられたな」

「え?」
「そろそろ行かないと お寝みになられるのだ」
「?」

「明日の報告はしくじれないぞ。 旦那様は 2度目の失敗にはお厳しい」


書類を詰めた鞄を抱えて 年長の男は立ち上がった。

狼の 水晶を想う一途さに 微笑まずにはいられなかった。


——-

 

寝間の扉を静かに開けて ジホは中をうかがった。

・・遅くなった。
 
自分がいないと眠れないと スジョンが言っていたというのに。

 

おずおずと夜具を覗き込むと 閉じていたスジョンの眼が開いた。

黒々とした大きな瞳が 嬉しそうにきらめく。
甘えるようなスジョンの笑みに ジホは 唇の端を上げた。

「・・起きておられましたか」

「うむ。 寝ようとはしたのだがな」
「遅くなりました」

 

白い腕が ジホへ伸びた。 愛しい腕に捕えられるように 
ジホは 大きな身体を差し出して スジョンの隣へ滑りこんだ。

「仕事が忙しいのか?」

「いいえ。 ・・具合は いかがですか?」
「腹の子が動かぬな。インスクは もうすぐ産まれるきざしだと言うておる」
「!!」


スジョンはゆったりジホにもたれて 肩先に頭をすりつけた。

ジホは 腕の中の華奢な身体を 一触で壊れる繭のように抱えて
スジョンが寝息を立てはじめるまで 暗闇の中でじっとしていた。


——-

 

・・ぅ・・・・


「・・・」

・・・・・・ジ・・ホ・・・


ゆらゆらと沈んだ眠りの中へ か細い声が聞こえてきた。
スジョンの声だと気づいた瞬間 ジホの全細胞が跳ね起きた。

「スジョン?!」

・・ジ・ホ・・・・

ジホが慌てて覗きこむと スジョンは額に汗を浮かべていた。
丸めた身体が苦しそうに 荒い息に合わせて絞るように揺れる。

 

「・・・イン・・スクを・・呼べ・・」

「?!」

スジョンは硬く眉根を閉じて じっと痛みを受け止めていた。
ジホは青ざめて起き上がり スジョンを夜具でしっかりと包んだ。

「す・・ぐ 戻ってまいります!」


廊下を駆ける足音を聞いて スジョンは 痛みの中で笑った。

・・ジホでも あんなに足音を高くして走ることがあるのだな。

 

「インスク!!」

張りのある怒声が邸内に響くと 一斉に 奥の灯りが点いた。
驚いたことに 侍女たちはすでに用意を整えていた。

「インスク!」

「来たかい?! 今夜は大潮だから もしやと思っていたんだよ!」
「大・・潮?」
「こっちの話さ! さ、皆んな! いよいよだ」


侍女を率いたインスクは ジホを押しのけるように動き始めた。

女たちに方々へ突き飛ばされながら ジホは 呆然と立ち尽くしていた。


———

 

スジョンのお産は 長引いた。

イ家の広間には しきたり通りに 祭祀の壇が設けられた。

 

インスクが広間へ入って行くと ジホは壇の正面に座り 
真っすぐ背筋を伸ばしたまま 刃の眼で前を見据えていた。

「・・・」

これほど憔悴したジホを見るのは初めての事だと 侍女頭は思った。

魔物にも平然と立ち向かう男が 眼にいっぱいの恐怖をたたえていた。

 

・・ジホ・・・

「インスク?! 姫様がどうかしたのか?!」

もう少しかかると医者は言っているよ。 「ひぃ様は 今お休みだ」

「お前も少し 休んだらどうだい?」
「“まだ”かかるだと?! 赤子は 半日で産まれるものじゃないのかっ!」
「お産は 1人1人違うものなんだよ」

 

ひぃ様の場合は どうしたものか 陣痛が途中で治まっちまうんだ。

やや子が随分のん気者か 眠たがりかも知れないね。

「馬鹿なことを・・!」

ジホは むっつりとチェサ壇へ眼をやった。 
心労のあまり削げた頬に 眼だけがぎらぎらと光っていた。

 

「ジホ」

・・インスク・・・

「ん?」
「・・俺はな」


どうして俺には母が無いのか 昔 考えたことがあるのだ。
多分母は 「俺が要らぬから」捨てたのだろうと思っていた。


「別にそれを 恨む気もなかった」

「・・・」
「だけど 違ったのかもしれぬ」
「?」


女子は 出産で死ぬ事もある。 

「ひょっとしたら俺を産んだばかりに 母は 死んだのかもしれない。
 そして今度は姫様が こんな俺の子を孕んだばかりに」


・・インスク・・・

「姫様は 死んだりしないだろうか?」
「ジホッ!」

 


この 腑抜けた父親は 何を縁起の悪いことを!

かんかんに怒ったインスクは ジホを怒鳴りつけようとして
眼前の男が 文字通り 死ぬほど怯えていることに気づいた。

「・・姫様は 本当に大丈夫か?」

 

インスクが 深い息を吐いた。
まったくどれ程 この男は ひぃ様を想っているのだろう。


「ジホ?」

「・・・」

「ジホが心配しているだろうと ひぃ様があたしをここへ寄こしたんだよ」
「ぇ・・?」
「ひぃ様からのことづてだ。 “お前の家族を作ってやるゆえ 待っておれ”って」
「!」

「・・知っているだろ? ひぃ様は お前より気丈だよ」

 

インスクが部屋を出て行ったことも 気づかずにジホは座っていた。

ただ スジョンの言葉だけが 狼の身体を満たしていた。


———

 

永遠に思えた時間の後で 遠くに明るい産声が聞こえた。

ジホは深く息を吸い 静かに眼を閉じて拳を握った。

 

インスクは赤子を絹に包んで はじける笑顔でやってきた。


「さぁ 旦那様! イ家の男の子だ」

「男・・。 ・・・姫様は?」
「得意満面でいらっしゃるよ。 ほら 早く大旦那様にご報告ください」


差し出されたくるみの中で 赤子は小さなあくびをした。

ジホはまじまじと我が子を見つめ まばたくことも忘れていた。

 

 

ジホが寝所の戸を開けると スジョンはゆっくりこちらを向いた。

侍女たちは静かに立ち上がり 2人を残して次の間へ下がった。

 

「ジホ」

スジョンが片手を伸べたので ジホは慌てて歩み寄った。
両手でスジョンの手を握り その手を頬にすりつけた。

スジョンは疲れているようだったが 眼は 生き生きと輝いていた。


「大・・丈夫ですか?」

「やや子を見たか。 元気だろう?」
「・・はい。 ・・・具合は いかがですか?」


ややを産むは確かにひと仕事だと スジョンが もう一方の手を伸ばした。


「・・え?」

「頑張ったのだから 褒美に抱け」  
「!」

 

は・・・・

一瞬 絶句したジホは ほどけるように柔らかく笑った。
身体の位置に注意を払って そっとスジョンを抱きしめた。


・・あぁ・・眠いな・・

「どうぞ ゆっくり休んでください」


「ややは 可愛いかろう?」
「はい」

「ジホに似ておる」
「はい・・」

「お前の息子だ」
「はい・・・」


ジホは「はい」しか言わないぞ。 不満の言葉はあくびに代わって
スジョンは 眠りへ落ちていった。

・・ありがとう ございます・・

ようやくジホが言えた言葉は スジョンの耳に届かなかった。

 


しばらくしてからインスクが覗くと スジョンは安らかに寝入っており

ジホは 寝台の横へ座り 糸が切れたように眠っていた。

 

 

 

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*