45 水晶妃-氷と狼の物語-第45話

 

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赤ん坊は 女の腹を膨らませて生まれてくる。

もとより知っていたはずの事実に ジホは心底驚愕した。 

 

その夜。 スジョンはジホの腕の中で 小さな寝息を立てていた。

自分の胸に背中をつけて 安らかに眠る華奢な身体を
くつろいだ気持ちで撫でながら ジホは 考えごとをしていた。


仕事のことを思っていた。 事業は堅調に伸びていた。 
課題は常にいくつもあったが 順に解決してゆくだけのことだ。 

なすべき事を考えながら 何気なくスジョンの胴を引き寄せた時 

ジホは びくりと凍りついて 薄闇の中で眼をみはった。

 

ほっそりとしたスジョンの身体が 下腹のあたりでわずかだけ

ゆるい曲線を描いているのが 掌にはっきりと感じられた。

「・・・」


それまで考えていた事は吹き飛んで ジホは夜具の上に上体を起こした。
背中越しに覗きこむと スジョンは我が身を護るように 丸くなって眠っている。

ジホが困惑にまばたいていると スジョンが小さく身じろぎをした。

背中を包んでいた熱が離れて寒いのか 不満げに鼻を鳴らす。


ジホは慌てて身体をすりよせ しっかりスジョンを抱きなおすと
ごくりと大きく喉を鳴らして もう一度下腹へ手を伸ばした。


・・ジ・・ホ・・・・・

「!」

・・・・

「・・スジョン?」

・・・・・・・・・


すうすうとスジョンの息は深かった。 
ジホの愛しい水晶は 満ち足りた顔で眠っていた。

ジホには スジョンが極細の糸で紡いだ繭に思えた。
その中心に子どもがいる。 自分の 血を分けて産まれてくるのだ。


それは 幸福というよりは畏怖に近く ジホの吸う息は震えていた。

ジホは大事にスジョンを包むと つややかな髪に頬をつけた。


——–

 

イ家に仕える者たちは 怜悧で鳴らした「氷のジホ」が 

愛妻の妊娠にうろたえる様を 始めは 微笑ましく眺めていた。

しかし 日が経ちスジョンの腹が膨らむにつれ 
ジホの顔が青ざめてゆく。

どれほどの難題を抱えようと 悠然と采配を振るってきた狼の
憑かれたような動揺は 使用人たちを戸惑わせた。

 


インスク! インスク!  ジホをどうにかしろっ!

「・・・」


「動いているほうがお産が軽いと お前からジホに説いてくれ!」
「えぇ・・」
「これではジホは そのうち私に邸内を輿で動けと言い出すぞ!」

「・・まったく・・ねぇ」
 

縫いためている小さな肌着を インスクは丁寧に畳んでいた。

肌着はジホの眼に留まらないうちに こっそり箪笥へしまい込もう。
こんな物を見たらあの男は またどれ程緊張するか知れない。

・・まったく・・・ねぇ・・・


「“まったくねぇ”ばかり言うな! インスク!」
「え? あ・・すみません」
「何なのだ いったい!」

子を産んだことのあるお前が ジホに意見をしないでどうする?

「・・・・」

「インスク!?」

「幸せ なんですよ」
「?」
「ひぃ様。 旦那様は・・、ジホは・・・、幸せなんですよ」
「え・・?」

 

家族なんて言うものが 貰えると思いもしなかったんでしょうね。
親も兄弟も 親戚も 誰一人知らずに育ったから。

「馬鹿ですよ ジホは。 幸せに慣れなくて どうしていいか解らないんです」
「・・・」
「無頼漢の刃にさえ 少しも動じなかったくせに」


まったく ねぇ・・。

インスクは もう何遍目かの言葉を繰り返した。
淡く笑った侍女の眼は 遠い日の少年を見つめていた。

 

は・・・

「インスクは」
「・・・」
「私の乳母だと思っておったがな」
「え?」

「確かに ジホは馬鹿者だ」

「?」
「とうに母を持っておるのに 家族がないなどと思うとはの」
「ぇ・・・?」


スジョンはゆったり立ち上がり ずいぶん目立ってきた腹に話しかけた。

「お前の父は愚か者だぞ。 お前は・・賢う生まれてこい」

——–

 

「スジョン!また! そんな薄着で身体が冷えます!」


噛みつくようなジホの声に スジョンは眉を高く上げた。

ジホが 厚手のショールを片手に 怒りの眼をして歩いて来た。

 

「さ、これを。 早く屋敷にお入りください」

「要らぬ。 鍛錬にずいぶんと歩いて 汗をかいたところなのだ」
「鍛錬? 何を妊婦が馬鹿なことを。 怪我でもした・・・」


わめいていたジホの声が 消えた。

スジョンの 白い手が伸びて 狼の頬をそっと包んだ。


「ジホ・・」
「!」


・・人・・が・・見ます・・・

「我らは夫婦だ。 見られても困らぬ」
「・・・な・・にを・・・」

のぉ ジホ? 女がややこを産む時には 尋常ならぬ力が要るのだ。


「身体は 休めば力が落ちる。 誰よりお前が知っておろう?」
「・・・」
「ややを産むるは 母の仕事だ」
「・・・」


これは 私の戦さなのだ。 お前が前で護ることは出来ない。 

「父は外と闘うものぞ。 内にかまけていてはならぬ」
「・・・」

「ジホ」

「・・・はい」
「お前のややが産まれるぞ。 我らの家は 安泰か?」
「!」


ジホは 言葉を失った。

水晶の眼はまっすぐに ジホを捕らえて微笑んでいた。


護ることばかりを思っていたジホは 眼の前にいる宝石が
いつしか 強い母になり 自分と並んでいることを知った。

スジョンのきらめく黒曜石の瞳は 大きな決意に満ちていた。

絶句していた狼は ほどけるように苦笑した。


「・・私は 貴女が気丈なことを ついつい忘れてしまいますね」 


——

 

向かうべき先を定めたジホの 威勢は恐ろしいばかりだった。

ジホの率いる商社「晶李」は 凄まじく業績を上げていった。

ジホは スジョンと産まれる子への心配を振り切る為に 仕事に没頭し
彼に従ってきた部下でさえ 自分たちの総領の気迫に震え上がった。

 


「・・何でも “狼”は大変な勢いだそうだな」

軍部の奥深い一室で 軍人が商人に問いかけた。

「近々 子どもが産まれるとかで ずいぶん発奮しているようです」
「大統領側はどうしている?」
「いや閣下。 大統領も何も 今の狼は 誰にも捕まりません」

「ほぅ?」


経済界の集まりにも 多忙を決め込み 顔も見せやしない。
利口な男です。 大財閥に狙われるような仕事には 手を出しません。

「堅固で骨太な経営ですな。 いやはや 羨ましいばかりです」

「巨大資本を繰る貴公が そんな事を言うものか?」
「大きい事も まぁ難儀です。 商売は あれぐらいが旨みが多い」
「ほぉ」

「奴が私の身内だったら 何としてでも後を継がせますね」
「身内といえば 平倉洞はどうしている?」

ククク・・・


「以前の件で“狼”を怒らせたんでしょう。 傘下の会社を潰されました」
「本家が 分家を追い落としたのか?!」

「表向き奴は無関係ですが。 恐らくは 水面下で動いたのでしょう」
「狼は 下手に怒らせると噛みつく・・か」
「子持ちの獣は 気が荒いですから」


今は 奴が敵側に付いていないことで 満足すると致しましょう。

軍人と商人はうなずきあい 話は他のことへ流れて行った。

——–

 

「!」

寝間へ入ってきたジホは 着替えをしていたスジョンに眼を奪われた。

白絹の夜着を押し上げるように 腹部が丸くせり出していた。

 

「この腹。 ・・まるでアヒルよな」

夜着の紐を結びながら スジョンは不服そうだった。
ジホはふわりと微笑むと そばへ座って 紐を結んでやった。

「金の卵を抱えているのですから ずいぶん貴重なアヒルです」
「お前から見れば 私は さぞや滑稽な姿であろう?」
「いいえ。 貴女は今まで以上に 見惚れるばかりの器量です」


ゆっくり 一つまばたいて ジホは優しい笑みを浮かべた。
そっとスジョンを横たえて 背中から柔らかく抱きしめた。 


「・・触っても いいですか?」

「うむ。 だが今日のややは あまり動かぬ」
「寝てばかりいる 怠けた奴だな」

ジホは膨らんだスジョンの腹へ それは慎重に手を這わせた。

その時 声が聞こえたように 胎児が中でぐりりと動いた。


「!」

「お、動いた。 父様に叱られては さすがにややも寝ていられぬか」
「・・・」
「どうした?」
「・・・・」
「ジホ?」

 

腕の中で寝返りを打つと スジョンは黙り込んだジホを見上げた。

緊張に固まる顔を見て スジョンの笑顔がいたずらそうになった。

襟をつかんでジホを引き寄せ ぽかんと開いた口へ口づけると
凍りついていた狼は 瞬時に溶けて まばたきをした。


「な・・にを スジョン・・」

「ガンホが色事の話ばかりするのだ」


「・・は・・?」
「妻が孕むと 夫が浮気するそうだ」
「! ・・私・・はいたしません」

「ややがいても房事は出来るらしい」
「!」
「“旦那様ならやり方を知っている”そうだ」
「!!」

 


艶やかに紅い唇で スジョンはにっこりと微笑んでいる。

明日 ガンホに意見をしよう。
スジョンの瞳に魅入られながら ジホは心の中で思った。

 

 

 

 

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