38 水晶妃-氷と狼の物語-第38話

 

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水原での疎開生活は 思いのほか 賑やかなものになった。

戦火を逃れた使用人の家族が 敷地内で暮らすようになり
邸内には 子どもの姿がちらほら見える。


大人ばかりの屋敷の中で 暮らしてきたスジョンにとって

自分より幼い者がいることが とても珍しかった。


——-

 


「振り返るとな 植え込みに頭が並んでいるのだ」

「・・・」

スジョンはジホの胸に頬をつけて 穏やかな鼓動を聞いていた。
寝物語に微笑みながら ジホは黒髪を撫でていた。

子どもらにとって美しい女主人は 女優か王族にでも見えるらしく
敷地内を歩くスジョンには 小さな観客がつくようになった。 

「手招いてみたのだが 慌てて逃げおる」

「貴女を煩わせてないように 親が近づくのを禁じているのでしょう」

 

そのうち菓子でも用意して おびき寄せてみるか。

まるで猫でも慣らすかのようなスジョンの物言いに ジホは思わず口元を緩めた。
息詰まるような戦時下にも 明るい水晶が頼もしかった。

 


ユギオ(6月25日)の侵攻から 約3ヵ月が経っていた。

ソウルを陥落させた北朝鮮は 一時 韓国全土を制圧する勢いだったが
戦線を立て直した連合軍の反攻で 今は 国境近くまで撤退していた。


「それからな 南庭の栗が良う生った。 ヘジャに薬食を作ってやるのだ」

「ヘジャ・・」
「イパムの妹分だ。もう随分と元気になった」
「・・・・」

「ヘジャが回復したから出てゆくなどと イパムが馬鹿を申してな。
 遠慮するにも程があると叱ったのだ。 ジホからも イパムを諌めてくれ」
「・・・・えぇ・・」

「・・・・」


スジョンは胸から頬を上げた。 ジホは 静まり返っていた。
ジホをしばらく見つめたスジョンは 何かを言いかけて 口をむすんだ。

——–

 

イパムの妹分であるヘジャは 小柄で 痩せた娘だった。

妓生の頃から身体が弱く 同郷のイパムが 面倒をみていたのだいう。


イパムは この屋敷に来てからも 基地や軍需工場へ手伝いに行っては
妹分と自分の わずかな生活費を稼いでいた。

 

「なんだ。イパムは また基地へ行ったのか」

薬食を持って来たスジョンは 呆れ顔で眉を上げた。
あんな美人が無用心に出歩いて 何かあったらどうするのだ。


「まったく・・。 かかりなど気にせず居れば良いと 私があれ程言うたのに」

「も、申し訳ありませんっ」
「? ヘジャが謝ることではないぞ。 お前はしっかり食べて元気になるのだ」
「・・も、申し訳ありません・・・」


恐縮するヘジャに茶を出しながら スジョンは不平がましかった。
お父様存命の頃よりの知己なのに どうしてイパムは ああまで遠慮するかな。

「ジホがイパムに冷たくするから 気がひけておるのだろうか」

「!!」

 

いつの頃からか 気になっていた事を スジョンはぼんやりつぶやいた。
イパムに対するジホの態度が 奇妙に素っ気ない気がしていた。

ジホを冷淡と言う者は多いが そうではないことをスジョンは知っている。

目下の者や 立場の弱い者には 平らで穏やかに話しかける。
とりわけ今回のような場合 普段のジホなら あれこれ世話をするはずだった。

 

「ジホが冷ややかなのは ・・イパムを意識しているからだろうか?」


ガチャンッ!!

金茶碗が 派手な音を立てた。
我にかえったスジョンが驚いて見ると ヘジャが 薬食を取り落としていた。

「ヘジャ? ・・・ど・・うし・・?」

「・・・・・」

 

ヘジャは 見るも哀れに青ざめていた。
こわばった頬に 目元だけが 抑えようもなく痙攣していた。

眼を丸くしていたスジョンの顔から ゆっくりと 表情が消える。
ヘジャはスジョンの独白を どうやら詰問と取ったらしかった。


・・・ぁ・・・

「・・・・」

・・・ぁ・・も・・・うし・・わ・・け・・・


「ヘジャに・・問うた訳ではない」
「・・・・」
「すまぬ 余計な事を言ったようだ。 気にするな」


にっこりと穏やかに微笑んで スジョンは 時計へ眼をやった。
私は そろそろ戻らねばならぬな。 薬食は イパムにもやってくれ。

 

 

本館への道を歩きながら スジョンは 今の事を考えていた。

ヘジャの見せた動揺は 「あること」を言外に告げてしまっていた。


「イパムは・・美人で 良い女だからな」

ジホより5つ年上のイパムは かつて ソウル一の妓生だった。
御大の座敷へ座る彼女は まるで艶やかな花のようだった。

聞きほれる美声と見事な舞いは あらゆる男の眼を奪った。

その上 聡明で教養があり 客のどんな話題にも相槌を打てた。

 

“おひぃ様。 あたしらなどは ジホ様と添える身分じゃありませんよ”

思い出せば かつてイパムは そんな事を言っていた。

・・身分違いだから 諦めたのか。 スジョンは そっとうつむいた。
自分は 度はずれた我儘を通して ジホを夫にしたけれど。


——

 

「・・・・」

「・・・・」

ジホは いぶかしそうな眼を 黙ったままのスジョンへ向けた。

胸にもたれた愛しい人は 今夜は 妙に無口だった。


「夫は妻を抱いて寝るもの」と聞き それが決まりと思い込んでいる彼女は
床に入ると 何も言わずともジホの腕の中へすりよってくる。

ジホは 彼女の可愛い誤解を 解かないままにしておいた。

寝る前のひと時 スジョンを包み 他愛ない話を聞くのは心が和んだ。

 

「・・・・・」

「どうしました?」

「・・なぁジホ。 北は このまま退くかな?」
「そうだといいですね」
「北ではまた 地主や旧役人が 随分粛清されたそうだな」
「・・はい」

思いつめたようなスジョンの声に ジホは切ない眼になった。
韓国が北に制圧されていたら 両班のイ家は 無事ではすまなかったのだ。


「なぁ・・ジホ」
「はい」

もしも また戦況が逆転して 韓国が北の支配に下ることがあったら

「お前は 私と離縁したほうがいい」
「?!」

「支配階級に生まれた訳でもないお前まで 粛清されることはない」
「・・何・・を」
「そうなれば 北には身分がないそうだから。 ・・誰とでも添える」

「私達は 身分違いでも添えたではありませんか」
「・・・」

「スジョン?」
「・・お前が 私の望みを叶えてくれたから」
「?」

 

もう寝よう。 

スジョンはこそこそとジホの胸から 逃れるように寝返りを打った。
・・どうされたのだ? 訳のわからないジホは 向こうをむいた背中を抱きしめた。

「・・・」
「連合軍は負けたりしません」
「・・・」

「もしもの時は 亡命すればいい。必ず貴女を護ります」
「・・・」


不安になったのだろうスジョンを ジホは しっかり抱きしめた。
温かな抱擁に包まれながら スジョンは唇を噛みしめていた。


——-

 

「・・・・・・」

 

危ないです! 物思いに沈んでいたスジョンに 幼い声が注意した。

見れば 棘を尖らせた栗が 足の前に転がっていた。
スジョンは 周りを見回して 植え込みのいがぐり頭へ微笑んだ。


「注意をしてくれてありがとう。出てまいれ」

「・・・」「・・・・」「・・・」
「褒美に チョコレをやるぞ」
「!」「!」「!」

 

わらわらと出て来た小坊主に スジョンはにんまり笑みを浮かべた。
菓子で釣れるのは 貴子だけじゃなかったな。

「旨いか?」
「はい。 でも あのぅ俺ら・・ご当主様の邪魔しちゃ怒られます・・」

大将らしいイガグリが 今更のように言い訳をして 
スジョンを愉快にしてくれた。

「気にするな。 “ご当主様”は今退屈で 遊び仲間が欲しいのだ」
「!」 

 

も~ぉ いい~よ~ぉ~・・・・


小さく聞こえる子どもの声に スジョンは身体を低くした。

茂みに埋まるスジョンは 忍びやかな足音に微笑んだ。
かくれんぼだけはしたことがあるのだ。 そう簡単には 見つからんぞ。

勇んで息を潜めたスジョンの耳に ひそとした会話が聞こえてきた。

 

「おひぃ様は・・私達の事を お尋ねになったそうです」

「な!」

“?”

「すみません。 ヘジャが うまく取り繕えなかったようで・・」
「・・・ヘジャが悪いのではない。責めないように」
「こんなことがあってはいけないから ご厄介になるまいと思ったのですが。
 本当に・・申し訳ありません」

“・・・・”
 
「私とのことはイパムが謝る筋ではない。 話は解った。もう行きなさい」 


スジョンは茂みにしゃがんだままで ジホの落ち着き払った声を聞いた。

すでに気づいていたことだったが 2人の間に何かがあったと
ジホの口から実際に聞くのは 胸が痛んだ。


——-

 

どうやら自分は愛しい人に イパムとの過去を知られてしまったらしい。

視線を合わせない水晶の 伏せたまつ毛に狼は怯えた。
今夜は ジホの差し出した腕へ 仕方なさそうに頭を乗せている。  


腹を 立てているのだろうか。

それとも 彼女は 自分を見限ったか・・


「あの」
「うん・・」
「もう少し こちらへ寄りませんか?」

「・・・・」

 

返事をしない水晶を ジホはおずおずと引き寄せた。

ジホの胸に 大人しく抱かれて スジョンはじっと動かなかった。

 

 

 

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