37 水晶妃-氷と狼の物語-第37話

 

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自分をまっすぐ見つめるスジョンを ジホは 呆然と見返した。


水晶のきらめく大きな瞳が ジホを芯まで射抜いていた。

ジホの 怜悧に落ち着き払った頬に ほんのわずかだけ迷いが揺れる。
スジョンは 愛しい狼の 惑いを決して見逃さなかった。

 


“お前がいないと 生きられぬ”

この言葉を ジホがスジョンの口から聞くのは 今が初めてではなかった。

解放前。 日帝が 屋敷を接待場にと迫ったとき
あくまで抵抗しようとしたジホを スジョンは その言葉で制止した。


“この上逆ろうて お前が 憲兵に引かれたらどうする?”
“私のことなど構いません!”

“だめだ!  ・・・ジホがおらねば 私は 生きられぬ”

 


「・・・・」

ジホは水晶の悲しい瞳を 今でも忘れていなかった。
あの時 彼女はあまりに幼く 切ないまでに無力だった。

なんとしてでも護らなければと 胸の痛む想いで聞いた言葉。

しかし今 ジホの眼前で かつてと同じことを言った水晶は
悲しみではなく 愛しさをたたえた瞳でジホを見ていた。 

 

「ジホ?」

「・・はい」
「私一人を水原へ去らせて 私を 護れるなどと思うな」
「・・・」

お前は 私の半身をちぎり取り 戦火の街へ置くと言う。 
私がそれで安んじて生きると お前は 本気で思っているのか?

「・・・」

 

スジョンは ふわりと微笑んだ。
想いのすべてが花咲くような 艶やかな笑みにジホは絶句した。

「お前を失くして 私はない」
「・・・」
「仕事の為に残るだと?」

商いなど 失なえば貧するだけではないか。
そんなもののために かけがえのない“私の半身”を危うくするな。

 

「危うければ 共に去ろう」
「・・・」
「お前が無理にも残るなら 私も ここを動かない」


歌うような口ぶりで 水晶は凛と言い放った。

陶然と笑む紅い唇を まじまじ凝視していたジホは
やがて は・・と息を吐いた。

どのみち 自分もこの宝石と 離れていられる確信はなかったのだ。

 


「出立を5日・・いえ10日 お待ちください」

「・・・」
「その間に仕事の拠点を動かし 出来ない事業は 整理します」
「うん」

満足そうにまばたきをすると スジョンは ジホの元へ歩いてきた。
ジホの身体に胸をつけて 抱けとばかりに彼を見上げる。

じっとスジョンを見下ろしたジホは なすすべもなく腕をまわした。

スジョンは 甘える腕を伸べて 引き締まった身体に抱きついた。

 

「・・まったく 誰が このような我儘娘に」
「お前が育てた」
「・・そうです・・」

仕事をたたんでも一緒にいろと 夫にねだる妻などおりません。

「言われて 諾と聞き入れる夫も」
「・・いません」


くすくすと スジョンはジホの胸で幸せそうな笑い声をたてた。
自分は なんとこの人に弱いのかと ジホはうんざりため息をついた。


「ジホ?」

「・・・」
「私の夫はな。 私の小遣いを借りて行き イ一族をまるごと買ってくる男だ」
「・・・」

「財の全てを手放しても 私は お前さえいれば良い」


口づけをしたいな。 
悪戯そうな眼を上げて スジョンが恋人を誘惑する。

「凶悪な妻です」 

心底スジョンに呆れながら ジホはそっと顔を伏せた。


——

 


本当に それからわずか10日の間に ジホは水原に仕事の拠点を動かした。

ソウルにいなければ采配出来ない事業は 売るか 惜しげもなくたたむ。
使用人達の転居を決め どうしても動けない者には 留守になる屋敷を任せた。

財務を担当する部下は 疎開で失う莫大な利益に仰天したが
部下が蒼白になって意見をしても ジホは 顔色も変えなかった。

 

6月20日。 

ジホとスジョンは 住み慣れたソウルの街を後にした。

漢江を渡る人道橋を 車が通り過ぎる時
ジホは 遠ざかる街を振り返るスジョンの横顔を見つめていた。

 

「・・・」

「大丈夫ですか?」
「ん?」
「その・・、ご生家を離れて寂しくはありませんか?」

「ジホがおれば そこが私の家だ」
「!」

・・何を 馬鹿な ショーファーに聞こえたら笑われます。 

ジホはむっつりと顔をそむけた。 白皙の頬に 朱が差していた。
スジョンは眉を吊り上げると 困らせるためにジホへもたれた。


——-

 

水原は ソウルから40km程 南に下った所にある。
 
李朝第22代の正祖王が 遷都するべく造営した水原華城は
八達山と呼ばれる山ひとつを 丸ごと城砦にした偉容を誇る宮だ。

 

イ家の 華城の別邸も 広大な敷地の中にあった。

屋敷の周りに拡がる緑で 建物は外の通りからは見えない。 

小城のような別邸には ホテルに出来そうな程の棟があり
疎開に付いてきた使用人たちも 敷地内に住むことになった。

 

引越しの荷物があらかた解かれ 疎開暮らしが始まろうという頃。
まるで タイミングを測ったように その報せが飛び込んで来た。


6月25日。 北朝鮮の侵攻開始。

攻撃をまったく予想しなかった韓国政府は 北の進軍に抗せなかった。

38度線を越えた軍勢は ゲリラ攻撃を展開し
国境突破後 わずか3日で首都を包囲したのだった。

 

「なんだとインスク? ソウルが 砲・・撃?」

「は、はい! 何でも漢江対岸まで 装甲部隊が来ているのだとか」
「屋敷の留守居は?!」
「それが 電話も通じませんで・・・」

「!!  ジホはっ?!」

 


スジョンが 別邸を探し回ると ジホは中庭の楼閣にいた。

息せき切って走り寄るスジョンを いつも通りの眼でたしなめた。


「また 貴女はそのような・・。 女子が裾を蹴って走るものではありません」

「ソウルが包囲されたというではないか?!」
「いいえ」
「え・・?」

ジホの瞳は冷えていた。 今度ばかりは 自分の予測が的中したのが辛かった。

「・・ソウルは “陥落”しました」
「なっ?!」

 

ジホは静か頬を伏せると 捕まえていた伝書鳩を籠へ入れた。
韓国軍第8師団は 首都防衛を断念しました。

「北朝鮮軍を防ぐため 韓国軍は漢江の鉄橋を爆破したそうです」
「橋を・・?」
「はい。 我々が渡って来た あの人道橋も落ちました」


連絡がうまく行き渡らないまま 漢江にかかる橋は爆破された。
その時首都から逃げ出そうと 橋を渡っていた避難民ごと。

ジホはスジョンに その部分を 伝えないまま話を終えた。

戦争はいつも人の命を いともたやすく奪ってゆく。

 

「スジョン?」
「う・・む」

多くの逝った人を思うと 逃げ出せたことも苦かった。 それでも・・

「貴女がだだをこねたお蔭で 私達は 命拾いしたかもしれませんね」

「・・・留守の者は どうなるのだろう?」 
「屋敷は無事だそうです。 避難してくる者を迎えなくては」
「ガンホ爺は?」
「彼は・・残るそうです」

 

鳩は 彼が送って来たものです。 「ガンホは 鳩を飼うのが上手ですから」

この歳で他所へなぞ行きたくないと 陽気に笑った皺だらけの顔を
ジホは 祈るように思っていた。

この戦火が止んだ時 もう一度 あの皺に会えるだろうか。

 


ソウル陥落後。  韓国政府は 水原へ遷都した。

せっかく疎開をしたと言うのに 首都が追いかけて来た形になったが
急遽 アメリカから派兵された軍が ひとまずこの街を護っている。

戦況の読めないこの状況で ここからさらに移る事は危険に思えた。

 

己の勘を信じるのだ。 狼は 自分に言い聞かせた。

ジホが ここに留まることを決めると 最早 誰も異論を唱えなかった。


——-

 


ソウルが落ちて数日の間に 水原にも避難民がやってきた。

別邸を頼って来る者を スジョンが迎えるように言ったので
彼らの便宜を図るために ジホは 忙しく立ち働いた。

そんな中 邸内を歩いていたスジョンは 偶然 懐かしい顔を見つけた。


「イパム!」

「? ・・・あ・・ぁ・・・おひぃ様」
「久しぶりだな!」

無事でいたかという言葉を スジョンはそっと飲み込んだ。
身一つで 逃げてきたのだろう。 イパムは酷い格好をしていた。

女の自分も見とれる程 美しい元妓生の落剥に スジョンは眼を暗くした。


「お前は・・少し疲れているようだ。中へ入れ 茶でも出そう」
「そんな! 滅相もない。 ・・ぁ・・あの・・・おひぃ様」

大変 厚かましいお願いですが 食べ物を少しご都合いただけませんか。
イパムは 恐縮し切った様子で おずおずとスジョンに懇願した。


一緒にソウルを逃げてきた妹分が 弱っております。

「粥でも食べさせてやらないと このままでは」
「妹分とやらは どこにおる?!」
「街外れの ・・避難所に」

「イパムはそこから歩いてきたのか?! ・・待っておれ!すぐ車を出させる」
「・・ぇ・・?」
「お前は中で休んでおれ。娘の名前は何と言う?」

 

ぁ・・! いえいえ!そんな! とんでもない!


慌てるイパムの必死の制止を スジョンはもう聞いていなかった。
ショーファーを呼ぶ 水晶の声を イパムは呆然と聞いていた。

 

「・・ィ・・パムですか?」

眼を上げたジホに スジョンはうんうんとうなずいた。
避難所で難儀しておったので 彼女は ここに住まわせることにした。

「・・・」

「よく知った仲だと言うに 酷く遠慮するので閉口した」
「・・・」
「妓生だった頃の妹分が弱っていてな。 彼女のためと言って説得したのだ」

「そぅ・・ですか」

 

にんまり。 昔なじみの窮地を救えて スジョンは嬉しそうだった。

いい事をしたと満足な彼女は ジホが眼を伏せたことも気づかなかった。

 

 

 

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