30 水晶妃-氷と狼の物語-第30話

  
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穀物相場の大変動と 太陽黒点の活動に

相関関係があるという学説を 狼は 信じたわけではない。


ただ彼の頭脳と本能が告げたのだ。 ”それは 今だ”と。

 


8月13日。  夏の盛りに 李承晩は大韓民国の設立を宣言した。

これで朝鮮半島には 事実上2つの国が出来たことになり
北緯38度線は 米ソの統治境界線から『国境』になってしまった。

 

戦いになる。 

それは 誰の眼からみても 避けようのない未来に見えた。 
先行きに対する不安から 秋の穀物市場は高騰した。 

しかしこの時 狼は すでに自分の勝利を決めていた。


商品先物取引で 「晶李」が大量の米を買ったという噂は 
その投資規模の巨大さとともに ソウル中の話題になった。

ついこの前までは無名だった 得体の知れない怪物は

今や 奇跡の成長を遂げた昇り竜として財界中から認められることになった。

 

とりわけ「晶李」へ高額手形を 振り出している平倉洞主人にとって   
その名は 身震いしたい程の恐怖と言っても決して過言ではなかった。

「・・・」

何度見ても変わらない日付を 平倉洞主人は見返した。

・・あと 3週間。

その間に 資金調達が出来なければ 2度目の手形も不渡りになる。

倒産の危機は目前なのに 資金繰りの目途が立たなかった。
国を揺るがす動乱の中で 事業の多くが立ち行かなくなっていた。


「・・水晶・・か・・」

本家の使者が持って来た招待書簡をながめながら 平倉洞主人はつぶやいた。

財産分与をした後の本家には 無心できる金も多くはあるまい。
大部分は あの古屋敷とカビ臭い本の為の基金とやらになってしまった。

それでも 他に当てはない。 平倉洞主人は嘆息した。


——–

 

イ本家の豪壮な大広間には 不機嫌な顔が集まっていた。

嫌悪の表情を隠しもせず 居並ぶ親戚達の中で
上座に座った水晶と末席に控えるジホだけが 湖のように静かだった。

 

イライラとした平倉洞主人が 文句を言おうと口を開きかけた。

まさに その瞬間を狙いすまして 執事が静かに宣言した。
「本日は 当主より婚約の儀に関し ご一族様へ報告を致します」

「?!」「!」


広間に居並ぶ親戚が ざわり と一斉にどよめいた。

怪訝そうに見交わしては首を振る男たちを前にして 水晶は眉も揺らさなかった。

親戚たちは 互いを探り 誰もが事情を知らないことを知ると
平倉洞主人が口を開くのを 待ち構えるように静まった。

 

「お前の・・婚約が整ったなどと 私は聞いていなかったぞ?」

怒りを底に沈ませた声で 「叔父貴様」は 姪をにらみつけた。
まったく小娘が生意気に 一体 何を言い出したのだ?

 

恫喝するような男の声に 水晶は みじんも動じなかった。

怜悧に上げた柳の眉と 常にも増して壮絶な美貌。
決意を秘めて冴える瞳は 氷以上の冷ややかさで平倉洞主人を圧倒した。
 
「叔父貴様には再々と 縁談をお持ち頂きましたが 私もようよう決めました」


「全体 どこへ嫁ぐと言うつもりだ?」
「嫁ぎませぬ」
「あぁ?」

「私はジホを夫に迎え 当主として このまま家を護ります」


ジホは族譜を持ちませぬ故 子は 私の籍へ入れます。

次第に眼を剥く一座の者など眼にも入らぬとでもいう様に
水晶は淡々と口上を終えると ゆっくりと 一度まばたいた。

 

「な・・にを・・言う。 そんな馬鹿な話が許されるとでも思っているのかっ?!」

吼えるような叔父の怒声を 水晶は頬で聞き流した。
叔父貴様達が 事の是非を決めるお立場ではありません。

「”本家の事は 本家が決す”。 そう申されたのは 叔父貴様でございましょう」
「お・・前はっ! 一族の名に泥を塗る気か?! 日帝の妾になった傷ものだから
 使用人を婿にするしかなかったと 我らまで人に笑われることになるっ!!」

「平倉洞様っ!!」


びり・・ と 広間の空気が揺れた。

末席から放たれた狼の声は 恐ろしいばかりの殺気に満ちていた。
満座の者は凍りつき 喉元に声を詰まらせた。

 

そんな中で 水晶だけが 平静な表情を崩さなかった。

「・・叔父貴様。 ジホは 使用人などではない」

忠義の為に執事を引き受けてはいるが 私は 給与も払っておらぬ。
ジホはすでに独立して 立派に自分で商いをしておるのだ。

「は・・。 書生風情が何の小商いをしようが そんなことは・・」

「ジホ」

「晶李」と言うたか? お前の会社は。
「平倉洞の叔父貴さまとも 確か 取引があるのではないか?」

 

・・ぇ・・・・

「?!」「!」
「・・晶・李・・・?」

成行きを窺っていた者達の 戦慄が その場をどよめかせた。

居並ぶ親戚の顔々から 見る間に血の気が引く様を 狼は静かにながめていた。
狩られる獲物はここにいる そして 勝負は終わっているのだ。


あごを落とした平倉洞主人は 割れるような耳鳴りをこらえていた。

「・・「晶李」が お前の会社・・だと?」

「ご挨拶申し上げるのは初めてになります。 以後 どうぞお見知りおきください」
「き・・さま・・、本家の金を投機に使ったのかっ!」


「・・・」

静かに伏せた眼を上げて 狼が相手をにらみつけた。
真白く光る眼の底が 凶暴な色をたたえていた。

「聞こえの悪い物言いは そろそろ止めていただけませんか?」

「なっ・・!」

狼はすらりと立ち上がり 親戚達が並ぶ背後を 優雅に歩を進めて行った。

それは姿を隠しもせずに 草原を歩く獣のようで
親戚達は 狼の牙が自分に向けられないことを ビクビクと願う餌食だった。


確かに私は ご本家より 幾度かご融資を頂きました。

「そうだろう! だからお前には あんな大金が動かせたのだ!」
「・・ですが それらは既に全額 利子を付けてお返ししております。 
 私は先代の旦那様が 苦労して築かれた財産を無くしたわけではありません」
「・・・ぅ・・」


歩みを止めた狼は 冷たくからかう眼差しで 平倉洞主人をひたと見据えた。

「世の中には 受け継いだ財産を 無為に失う方もいるようですが・・」
「!」
「平倉洞様」

・・もし 姫様と添うとなれば 私も皆様とは縁続き。

「”身内”の苦境に救いの手を伸べない程 私は 薄情でないつもりです」
「・・・」
「例えば ”手形の不渡り”を 防ぐことが可能なように」
「!」


「あるいは・・例えば”多重の負債”を 帳消しすることも出来るでしょう」

狼は ゆっくり歩きながら 言い聞かせるように囁いた。
一座の者は慌てて眼を伏せ それぞれの狼狽を隠そうとした。


青ざめていた平倉洞主人の顔が みるみるうちにドス赤く変わった。

「き・・さま。 最初からそのつもりで・・」
「何のお話でしょう?」
「おれは 絶対! 認めんぞ!」

「ご自由に。 私も”他人”には 決して便宜を図りません」
「!!」


狼は悠々と上座まで歩き 水晶の背後へ傲然と立つと
広間に並んだ親戚達へ 最後通牒を突きつけた。

「結婚の儀は”2週間後”です。 お歴々にはご参席いただけますよう」

——-

 

「・・のぉ ジホ? あれで話がついたのか?」

客が帰り がらんとなった大広間で スジョンは愛らしく首を傾げた。

親戚達は憤然と あるいはうなだれて引き上げて行った。
誰も言葉を発しなかったと スジョンは1人不思議がっていた。

 

「・・・」

ジホはスジョンを静かに見やり 今更ながらに 着飾った美しい姫にうろたえた。

襟からのぞく首の白さと絹に包まれた胸元が 意識のすべてを占領する。
ジホは ついと顔をそむけて なんとか冷淡を装った。

「式を欠席するほど気骨のある方々ならば もう少しは 手強かったでしょう」

「それでは ・・ジホと結婚できるのだな?!」
「!」


軽やかな絹をさりさりと鳴らして スジョンが大きく身を乗り出した。

ふわりと拡がるチマの中へジホの膝が隠れるほど近寄ると 
スジョンはつんとあごを上げて 得意げな顔で華やかに笑った。

「婚礼支度もちゃんと整えたぞ」

「・・そ・れは・・よろしゅうございました・・」
「ジホは 上背もあるし姿も良い。花婿装束は見栄えがしような!」
「姫様・・どうか・・」

 

今少しお下がりくださいと 言いかけた言葉が途中で切れた。
嬉しげに笑うスジョンの瞳から 涙が一粒こぼれ落ちた。

「?!」

思わぬ涙に動転して ジホはスジョンの腕をつかんだ。

「どう・・なさいました」
「わからぬ」
「?」
「何だか・・」


ジホは慌ててスジョンを引き寄せ 指で涙をそっとぬぐった。
一体 何が起こったのかと 不安に肌が粟だった。

ジホの胸へもたれかかり スジョンはゆっくり息を吐いた。
胸を温める柔らかな息を ジホは 大切に包み込んだ。

「・・お加減が 悪いのですか?」

「違う」
「それでは」
「・・ジホ・・」
「はい」

スジョンのほっそりした腕が ジホの身体を抱きしめた。
「本当に・・これで お前と添えるのだな?」

「!」

胸の中で ジホの宝石が 泣き笑いながらきらめいていた。
ジホは安堵の息をつくと 愛しさに負けて スジョンを深く胸に抱きしめた。

「はい。 結婚いたしましょう」

 

 

・・膳を下げるのは後でいいから・・・


広間の扉の陰で インスクは1つ指を立てて 侍女達を追い払った。

最後に扉を閉める時 2人は 幸せな繭に見えた。

 

 

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