28 水晶妃-氷と狼の物語-第28話

  
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激した気持ちが静まるにつれ ジホは ゆっくり青ざめていった。

自分は今 ほっそりと柔らかなスジョンの身体を 腕の中に抱いている。

優しげな外見とはうらはらに 剛毅で無骨な男にとって
恋を語らうなどという事は 想像するだけで脂汗がにじみそうだった。

 

・・・ぅん・・・・・

気づけば 自分はスジョンを ずいぶんと窮屈な姿勢で抱きしめている。
慌てて腕を緩めると 解かれた彼女が安らかな息を吐いた。


「・・ジホ?」

腕の中から 黒々ときらめく瞳が見上げていた。

不安と期待をないまぜにした 戸惑いの表情が愛らしかった。

ジホは平静を装って 冷ややかに眉を上げてみたものの
スジョンの顔に心細げな色が浮かぶと ふわりとなだめるように笑った。


「姫様は 少し痩せられました」

涙の跡が残る頬を 壊れもののように手で包む。
紅い下唇がわずかに腫れて 小さな傷に血がにじんでいた。

・・あんなに強く・・噛みしめるから・・・

微笑んで 切なく見つめるうちに 愛しさが胸を突き上げた。

自分の行動を考える前に ジホは腕の中へ頭を下げて 傷跡へ唇を押しあてた。

「!」


唇を離す時。 ジホは心の中で 自分のこらえ性の無さをののしった。

手に入れると心を決めてしまうと 水晶への欲望は抑えがたかった。


「・・・」

「・・・」

「もう一回してくれ」
「だめです」
「口づけは初めてなのだ」

「く、唇が切れておりましたので 傷に触れただけです」


言った途端に呆れかえって 眼を裏がえしたい気持ちになった。

言い訳にもならないことをささやきながら そのくせ スジョンを手放せない。
彼女の頬を包んだまま ジホは 親指で惜しむように唇を撫でた。

 

「私を ・・貰うてくれるのか?」

「姫様が 私を娶って下さるのでしょう?」
「私はその 無垢ではないが。 ・・それでもジホは 本当に良いか?」 

ふ・・・

思わず ジホの口元がほころびた。 
口づけもしたことがないと言う姫様が まだ そんな事を言っておられる。

「そんな事でもありませなんだら 主家の姫など 畏れ多くていただけません」
「!! ・・・そうか」


ジホは静かに笑いながら スジョンの髪をゆっくりと撫でた。
姫様こそ 生まれも知れぬ卑しい男を 夫にしても良いのですか?

「生まれは知れずとも ジホは 卑しくなどないぞ」
「!」

ジホは 私が知っている中で 最も気高く立派な男だ。
「きっとお前の父様は 雄々しい方だったに違いない」

「・・・」

ふいを突かれた狼は うかつな事に もう少しで涙ぐむ所だった。
見たこともない親について 恨みはすれども 慕う事はなかったのに。

 

呆然とするジホの胸へ スジョンは嬉しげにもたれてきた。

華奢な腕が巻きつくと ジホはビクリと身を固くした。

スジョンの肌と甘い香りに 身体が反応してしまっている。
何とかこの場から逃げないと 自分を抑えられなくなりそうだった。

 

「・・嫁入り前の娘が 男に抱きついたりするものではありません」

「でも ジホの嫁になるのだから 良いだろう?」
「・・けじめというものがございます」

スジョンを押しやるようにして やっと ジホは身を離した。
痛い程の昂まりに 背骨が折れそうな気持ちだった。

そんな葛藤を知りもせず 逃げるジホの腿の上へ スジョンが小さな手を置いた。
「!!」

「のぉジホ。 じゃあ もう一回口づ・・」
「だめです!」
「?!」

余裕の無さから ジホの声が噛み付くようにきつくなった。
激しい拒絶に驚いて スジョンは傷ついた表情になった。

「すまぬ」

「・・・・」
「私は はしたないな」
「・・ぃ・ぇ・・・」

「お前に貰うてもらえるのが嬉しかったのだ・・怒らないでくれ」

 

スジョンはおずおずと手を引いて しょんぼりと座布にかしこまった。
ジホは降参の息をもらして もう一度 拷問に耐えるために歯を食いしばった。

「・・眼を おつむりなさい」
「何故?」
「そうするものだからです」


そして柔らかく重ねた唇は 水晶を夢見心地にした。

狼は 幼く応える恋人の唇を 食いつくすまいと必死だった。


——–

 

「・・・・」

「・・・・」

「・・・・」


まったく用事が溜まっているのだから さっさと言い出してくれないかね。

インスクは 顔を上げては口をつぐむ執事に やきもきとした眼をやった。
茶碗を下げに来た侍女頭へ ジホが 物を言いたげだった。

「・・インスク・・」

「はいはい!」
「・・姫様を・・貰うことにした」


は?!

あんぐりと口を開けたインスクに ジホはほっとしたように笑ってみせた。
それはまるで口に出したことで 惑いが切れたとでも言いたげだった。


「インスク」

「・・・」

「お前は正しかったな。野良犬などに守りをさせると 何をしでかすか判らない」
「・・・」
「先に親父様にお会いしたら そう言ってくれ」
「・・・・」


ごくりと唾を飲み込んで やっと インスクが正気づいた。
聡明で名高いこの男が 言い出したことの愚かさに呆れ返った。

「・・ば・・馬鹿をお言いでないよ!ジホ。 お前とひぃ様は身分違いだろ?」

「そうだな」
「そうだなってお前。 ご親戚の方々が認めるとでも思っているのかい?」
「インスク」

そりゃ判ってるよ あたしだって。 ひぃ様のお気持ちくらい。
ひぃ様がお前を慕っているのは もう先から判っていたけどさ。

「そうなのか?」

おろおろとうろたえるインスクを ジホは面白そうに見た。

この気の優しい侍女頭は 俺よりずっと多くを見ていたのだな。

 

ジホなら 姫様の気持ちに応えてやりたいと 思ってしまうのも無理はないが
それは無茶と言うものだよ。 「世間が許さないことだからね」

「そうだろうな」
「大体ご親戚が許さないだろうに どうするってのさ?」

 

クックックッ・・・

さも可笑しそうに笑い出したジホに インスクは地団駄を踏む思いだった。
出来ない事を期待させて ひぃ様を悲しませないければいいけれど。

「インスク。 お前は育ちがいいな」

「え?」

「お前は 野良犬というものが どんなことをするか判っていない」
「え・・」
「俺は ご親戚に”お許し”など頂くつもりは毛頭ない」


イ家のご親戚の奴らと来たら 揃ってろくでもない下衆だ。
自分の欲や利益の為なら 姫様がどうなっても構わないのだから。

「そりゃあ・・」

「利の為に姫様を差し出す奴が相手なら やり方があるだろう?」
「?」
乗っ取るのだ この一族を。 「・・・姫様ごと」

「なっ?!」


ジホは 悠々と微笑んで 執務室の椅子へ背を埋めた。
歯をむき出した狼は恐ろしいほどの自信に満ちて インスクを震え上がらせた。

「インスク」

「は、はい!」
「この国は これから動乱になる」
「え・・」

南には南朝鮮過渡政府、北では朝鮮民主人民共和国。一つの国に政府が二つだ。
この状態で進駐軍は 統治を退こうとしているのだから。

「後は 米中ソを黒幕にして 朝鮮人同士が争い出す」
「・・内戦に・・なるのかい?」
「おそらくはな」


乱世とは 目端の利く奴が成り上がる 千載一遇の機会なのだ。
俺は必ず成り上がる。一族を呑む程に成り上がって 

「本家の姫を貰うのだ」
「・・・」

「出来ないと思うか?」

いたずらそうに笑んだ狼に インスクは呆れて肩をすくめた。
まったく姫様の為ならば この男は 何でもするつもりだよ。

「・・お前だったら 無一文からでも成りあがれるに決まってるさ」

 

インスクは静かにため息をついて 息子の様な狼の決意を認めた。
どうりで いきなりひぃ様が 元気を取り戻された訳だよ。


「・・草葉の陰で 旦那様が怒っていないといいけどね」

からかう様な物言いに ジホは 真顔で青ざめた。
この忠義な男にとって さぞ苦渋の決断だったろうと インスクは微笑ましかった。


「インスク」

「ん?」

俺は あの世で 親父様のお叱りは必ず受けるつもりだ。
その代わり 今生では何があろうと必ず姫様を幸せにする。

「・・・」

「きっと ・・親父様はお許しになるまいな」
「ああ 許すまいよ」

大事なひぃ様を後に残して あの世に行くことなんか考えてちゃ。

「?」
「旦那様なら 一心不乱に姫様を幸せにしろって怒鳴るんじゃない?」
「!」

 

強気で鳴らした狼が 初めて 安堵の笑顔を見せた。

恋する若者のきらめく決意を インスクはまぶしそうに見た。


 

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