19 水晶妃-氷と狼の物語-第19話

 

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「その日」は 唐突にやってきた。


日本がポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏した。

夏の盛り。 報せを聞いた水晶は 一瞬 ぽかんと口を開けた。

 


「日本が・・降伏? 戦争が終わったのか?」
「はい」

日本は 朝鮮の統治を放棄しました。

「・・では 朝鮮人の政府が建つのか?」
「まだ わかりません。連合軍が進駐して来るという話もあります」

市街では 朝鮮人が”戦勝”の旗行列をする騒ぎになっているそうです。
「姫様には どうぞ 外出をお控えくださいますよう」

 

普段通り 今日の予定でも言い渡すように ジホは書類をめくっていた。

静まり返って眼を伏せるジホに スジョンは問わずにいられなかった。

「ジホ? ・・日本人達は どうなるのだ?」
「・・・」
「中将閣下や小此木さんは 降参したら 後は無事なのか?」
「・・・」


書類をめくる手が止まり 沈黙だけがよどんでいた。
ジホを見つめるスジョンの顔に 次第に困惑が広がっていった。

「中将閣下に お会いしに・・」

「姫様」

ジホは スジョンを見なかった。
彫像の如き横顔が 厳しい瞳を 真っすぐ宙に据えていた。

「閣下は ご立派な将でいらっしゃいます」
「う・・む」
「敗戦と決しても ご自分の責を全うされるでしょう」
「・・・そうか」


スジョンがそれ以上聞かないことに ジホは内心 救われた。

戸外には 灼熱の陽が照りつけて 驟雨の如く蝉が鳴いていた。

——

 

1945年の秋冬は 激流の中を行くようだった。


連合軍のいないまま 終戦を迎えた朝鮮は 統治をめぐって混乱した。

独立をのぞむ勢力が 朝鮮人民共和国の建国宣言をしたが
進駐してきたGHQは この政府を解体させ
北緯38度以南の朝鮮は アメリカ軍政庁の統治下に置かれることになった。

 

とはいえ 進駐してきたアメリカ軍は 朝鮮を治めるすべを持たなかった。

言葉のわかる者も少なく 文化にも社会慣習にも知識がない。

結局のところ 軍政庁は 総督府で働いていた日本人や親日派の朝鮮人人士を
そのまま引き続き登用して 行政の実務にあたらせることになった。

 


「毎日毎日 本土へ引き揚げる日本人が増えていますよ」

洗濯物を片付けながら インスクは深いため息をついた。
寒くなってきましたし 幼い子を連れた家族は 本当に大変そうです。

ロシア統治となった北部からも 膨大な引揚者が流れ込み  
京城(ソウル)の冬は 大変な混乱の中にあった。


「街には青い眼の兵隊さんがあちこちにいて 何だか怖いみたいです」

ひぃ様は決して 歩いて外などに行かれてはいけませんよ。

「・・うむ。 ジホは?」
「総督府に呼ばれて行っています。 また 軍政庁さんの通辞だとか」
「ふぅん・・」

 

アメリカ軍政庁の統治期。 経済は これ以上はない混迷にあった。
誰も彼もが日帝に奪われた土地や利権を言い立てて 利を手中にしようと殺到した。


そんな中 イ家の執事の能力は 総督府中を驚嘆させた。

群を抜いた交渉力を持ち 呈する資料は緻密だった。 
何よりジホは 軍政庁の人間に対しても 流暢な英語で畳みかける。

年功序列の朝鮮社会と違い 能力主義のアメリカ人にとって
明快なロジックを自在に繰る 洗練された物腰の若い執事は
コミュニケーションがきちんと取れる 有能な人物と目されることになり

時に 通辞や代理説明のために 協力を求められるようになっていた。

 

「ジホが英語を話せるとは 知らなかったな」

確かにジホは 時間があれば 何くれと書を読んでいたけれど
会話まで どうして覚えたものだろう。 スジョンは首を傾げていた。

「宣教師様や イファン貿易で実務をする者に習ったそうですよ・・」

 

早くから 戦況の先を読んでいたジホは 「次にくる者」に備えていた。

やってくるのが連合軍なら 意志の疎通に英語は欠かせない。


ありとあらゆるつてを使い 英語を習う算段をした。
ジホを教えた宣教師は その卓越した学習能力と気迫に感動したという。

「私の生涯で あれほど熱心な教え子も あれほど優秀な教え子も他にない」


ジホについて 宣教師は人にそう語った。

——

 

玄関番が 転がるようにやって来た。


「お客様が・・外にまいっております」

どうしますか。 まだジホ様が戻りませんと 玄関番は慌てていた。

「客? 知った方か?」
「それが・・せ、瀬尾様です」
「!!」


インスクの制止を振り切って スジョンは玄関へ迎えに出た。
スジョンの美貌を見た途端 付き添いのアメリカ兵が 眼を丸くした。

「中将・・閣・・下・・」

「水晶。 久しかったな 元気そうで何よりだ」

邪魔して 良いか? ネクタイもしない背広姿で 御大は薄く微笑んだ。
かつて軍服で胸を張った堂々たる体躯は ひとまわり小さくなっていた。

 

「ジホ様・・! 門の所に」

ショーファー(運転手)の小さな叫び声を聞いて ジホは書類から眼を上げた。

見れば イ家の門前に「USAMGIK」と記された 軍政庁の輸送車が停まり
門の脇には 自動小銃を肩に下げたアメリカ兵が歩哨をしていた。

「?!」

——-

 

慌てて座敷に駆け込んだジホへ 御大は 静かに手を上げた。

目顔で示した先には スジョンが寝息を立てていた。

「・・?・・」

長座布に横たわるスジョンには 御大の物だろう 男物のマントが掛けられていた。
眠るスジョンを見守るように 彼は独り 茶を飲んでいた。

 

「泣かれてしもうてな。 水晶の涙には叶わんよ」

「中将閣下」
「今やもう 敗軍の将だ」
「・・・京城におられるとは 思いませんでした」

 

敗軍処理も煩雑なものだ。 

御大の言葉は ため息のように静かだった。
狼は 何かを断ち切った境地に立つ 中将の安らかさに胸をつかれた。

「これでも 私はアメリカさんに 存外気に入ってもらえたようでな」

移送が決まったので 最後に一つだけ 我儘を聞いてもらった。


「日本へ・・戻られるのですか?」
「ああ。 戦犯だからな 裁判を受けることになる」
「!」


話し声が聞こえたのか 水晶がう・・んと小さな声を立てた。
2人の男は 姫の眠りを護るように口をつぐんだ。

「・・・」

「・・・いつ・・お発ちになります?」
「明後日だ」
「・・・」

雄弁な沈黙だけが 2人の間を流れていた。
永遠とも思える一瞬に ジホは頭を垂れていた。

 


「そろそろ行かねば」

「・・もう ですか?」
「見張りも無しに 話をさせてくれたのだ。 心配させる訳にはいくまい」


唇を噛んだ狼は 眠る水晶を振り向いた。
揺り起こそうと動きかけると 瀬尾が手を上げて遮った。

「このまま 行かせてくれ」

「ですが・・」
「また泣かれたら 最後に見る水晶の顔が 泣き顔になってしまうだろう?」
「・・・・」

 

お前も ここで見送ってくれないか?

「私はただ 水晶が無事なことを 確認したかったのだ」
「・・・」
「お前が 水晶のそばに居て護る姿を この屋敷の見納めとしたい」

 

音を立てずに御大が立った。 

ジホはひたと床に手をついて 立ち去る彼を見守った。
引き戸のところで立ち止まり 御大は低くつぶやいた。

「相澤を・・憶えておるか?」

「?」
「壮行会で 真っ赤になって水晶に挨拶した少尉だ」
「ええ」

「彼の隊は壊滅した」
「!」

ジホ・・と 御大が呼びかけた。
その声は 驚く程に「親父様」の声音に似ていると ジホは思った。

 

「お前は 必ず生きて 水晶を護れ」
「・・・・」
「誓えるな?」

「はい」

 

ふ・・と 御大の背中が笑い 安堵したように引き戸が閉まる。

ご無事でと ジホには声が掛けられなかった。

 

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