17 水晶妃-氷と狼の物語-第17話

 

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首都が焼失した報せは 黒木の神経の糸を断った。


富裕な実家が罹災して 家財の大半が失われたと言う。
彼にとってその喪失は 世界全体が崩壊したのに等しかった。


黒木の周囲にいる者は 大佐の言動に首を傾げた。

常の狡猾さがまったく見られず 呆然と 独り言をつぶやいている。


だが今 総督府にいる者は 彼の事など気にしていられなかった。

—–

 

黒木は 暗く粘る眼で じっと虚空を睨んでいた。

“・・どうして俺のものが 何もかも奪われてしまうのだ?”


生来得たものに ただ寄りかかり 
恩恵の汁ばかりを吸って生きてきた男にとって

すべてが思い通りにならない現実は 間違っているとしか思えなかった。

 

“あいつの せいだ・・・”

あの 生意気な執事。 
生まれも卑しい若造のくせに 尊大な顔をしやがって。

“それに ・・水晶”

この俺が 妻にしてやるとまで言ったのに
清純そうな顔をして 瀬尾なぞの妾になるとは。


黒木はどろりと眼を揺らし 水晶妃の姿を思い浮かべた。

初めてイ家の座敷で見た この世のものとは思えぬ美貌。

なめらかに光る白い肌と 黒々と輝く大きな瞳。
つややかな果実を思わせる紅い唇が あの時言った。

“冷めませぬ内に どうぞ お召し上がり下さいませ”

 

・・・確かに 俺へ言ったのだ。 

黒木はフラフラと席を立った。 水晶は 最初から俺を気にしていた。
そうだ。 俺を誘惑していたのに 瀬尾が横恋慕で奪ったのだ。


机の上の電話が鳴った。 

事務官が慌てて飛びついて 黒木大佐の名を呼んだ。

しかしその時 部屋の中から 黒木の姿は消えていた。

——

 

この先 空襲は増えるだろうか?

姫様を京城から疎開させる方がいいか。 しかし・・南も 安全か?

事業仲間の寄合いの帰り ジホは 黙然と考えていた。
連合軍進攻の噂が乱れ飛び 朝鮮全体が騒然としていた。

「・・・」

 

考えながら歩いていると 玄関番の男に眼が留まった。

余計なことかと怖じながらも 何か言いたげな様子だった。


「どうかしたのか?」

えぇ・・あの。 今夜 黒木様はご予約でしたか。
「大佐か? いや。 何故だ?」
「先程 お一人で見えられたのですが ご様子が少し・・」


・・その・・妙だったような気がしまして・・気のせいかも知れないのですが・・

玄関番はおずおずと報告すると ジホの反応を窺った。
しかし そこに彼の姿は無く 石畳に書類が散らばっていた。

——

 

スジョンは この頃夜着にしている白いブラウスの襟を留めた。

夜間に空襲があるかも知れないと 寝間着を着ることはなくなっていた。

 

“日本はどうやら負けるらしい”

様々な 情報が飛んでいた。 連合軍が日本の主要都市を爆撃し
各地で大きな被害を出している事実は 隠しようもなくなっていた。

「・・・・」

日本が負ける。 そうなれば 米英が朝鮮を開放するという。 
だけど・・ それでは敗軍である日本人達は この先どうなるのだろう。

スジョンはぼんやり 中将の笑い顔を思い出していた。

あの方の身が 危うくなるような事態にならなければいいのだけれど。

 

「?」

物音を聞いたような気がして スジョンは 入口を振り返った。
そこには黒木がよろけるように立ち 濁った眼で こちらを見ていた。

「・・・・・・」

「部屋を間違われたようだな。 ここは 座敷ではない」
「・・妻に・・してやる・・・」
「何?」

 

・・あぁ・・お前は・・本当に・・・美しい・・

黒木は焦点の定まらぬ眼つきで  うしろ手に戸を閉めて歩み出す。
尋常じゃない。 にじり入って来た男に スジョンの肌が粟だった。


「誰ぞ!」

叫びかけた口元を 男の手がわしづかみにした。
血走った眼が鼻先に迫り スジョンは 黒木の眼中に狂気の色を見て取った。

襲いかかって来た男は スジョンを床へ押し倒した。

ブラウスの襟ボタンが飛び 片手が胸元の布を裂く。
スジョンは 口をふさぐ手に 力いっぱい噛みついた。

バシッ!!

強い張り手に殴られて スジョンの眼の中で火が弾けた。
気を失うまいと思った瞬間 引き戸を蹴破る音が聞こえた。

 

獣の吼える声がして 黒木の身体が突き飛んだ。

黒い影が 眼にも見えない素早さで 男の身体に跳びかかる。

狼は もんどりを打って倒れた男の 胸倉を片手でつかみ上げる。
握った拳が まっすぐに 黒木の頬へめりこんだ。

 

ドシッ・・  

肉の裂ける 耳障りな重い音がして 血に染まった歯が床に落ちた。
「何をした」

・・ぐ・ふ・・・

「姫様に 何をしたっ!」

蹴り上げられた黒木の身体が 一瞬 宙に静止して
あ然と見つめるスジョンの視界を 斜めに切って床へ落ちた。


ガタガターンッ!

「ジホッ!」

詰まった喉が やっと解けた。
スジョンの声を聞いた途端 狼の動きがピタリと止まった。

「・・・」

「・・ジ・・ホ・・・」


狼は 真っすぐ前を向いたまま 水晶の姿を見られずにいた。

やがて恐怖に震えながら おずおずと スジョンを振り返り
彼女の唇の端が切れ 血が出ているのを認めて 蒼白になった。

「姫様?!」

 

・・殺してやる。 狼の全身から 音を立てて青い焔が吹き上がった。

血反吐を吐いて這った黒木が 悲鳴を上げて後ずさる。
騒ぎに気づいて使用人達が駆けつけ 侍女の 金切り声が響いた。

「姫様?! 姫様!! まあっ! 何という!」
「警察だっ! 誰かっ!」
「ジホ様を止めろっ!」

 

なだれ込んできた人達で 蜂の巣を突く騒ぎになった。
厨房の 屈強な若衆が2人がかりで 怒り狂うジホを押さえつける。

玄関先まで 転がるように逃げ出した黒木は 

憲兵が 走り寄ってくるのを見ると あらん限りの声を張った。


「あ、あの男を捕まえろ! 反日抵抗分子だっ!!」

——

 

総督府の石の廊下を 小此木中佐は飛ぶように進んだ。

御大は 走り込んで来た部下を見ると かけていた電話を切りあげた。

どんな時にも冷静で 取り乱すことのない小此木が
珍しいことに その顔に はっきりと怒りを浮かべていた。

「何事だ?」
「憲兵が イ家の執事を連行しました。 反逆の疑いです」

「な・・んだと?!」

 


イ家の豪壮な玄関の間を 水晶の怒声が切り裂いた。
「車を出せと言っておる! 早くせぬかっ!」


「ひぃ様!ひぃ様! どうかっ!お止めください!」

「当主の命だ! 聞けぬかっ!インスク!」
「だ・・・だめです!」
誰かっ! ひぃ様を止めてっ!


氷の瞳が猛り狂い ぞっとするような迫力だった。

止めに出てきた 若衆さえも
水晶の怒りに怖気づき 彼女に触れることが出来なかった。


「憲兵の所へ行くのだ! 車を出せっ!」

蹴るように 玄関を出た水晶の前へ 大きな腕が広げられた。
すらりと長身の小此木中佐が 底光る眼で 水晶を制した。

 

「退きやれ」

スジョンが 高く眉を上げた。
斬りつけるような冷ややかさに 小此木さえ わずかにたじろいだ。


「静まれ・・ 水晶」
横付けた車の後部座席から 御大が ゆらりと降りてきた。

ジホはお前に 落ちついてここで待つように 言い置いて行ったのではないか?

 

「いったい 何が。  おぃ・・・どうしたその顔は?」

御大は スジョンの切れた口元と 殴られた頬の腫れに息を飲んだ。
あの用心深い狼が 激昂したのは  ・・これが理由か。

「黒木にやられたのか?」


「・・・・」
「大丈夫か?」
「ジホを 返せ」

「・・・・」

「ジホに非はない!」


何故 ジホが連れて行かれねばならぬ。
女を手篭めにしようとする奴から 護ったことが反日か!

「水晶・・」

「それがいやしくも 帝国軍人のすることかっ?!」

 

氷の瞳に怒りをたたえて スジョンは噛みつかんばかりだった。
こんな危急の場面ながら 御大は思わず笑いそうになった。

突き抜けるほど真っすぐに 呆れるばかりの気の強さだ。

あの狼を取り戻しに どこまでも行くつもりか。

 

「水晶・・」

「ジホを返せ! 閣下なら出来るだろう?」
「・・・水晶。 以前にお前の友達を釈放してやった時と 今は 事情が違うのだ」

今の総督府は 反日活動を全力で鎮圧せねば 統治が危うい。

「ジホは 反日などではないっ!」
「それでも・・だ」


彼は 卑しくも帝国軍人を それも大佐という身分の者に怪我を負わせた。
時局柄 我らに非があると認める訳にはいかぬ。

「これを許しては 暴動が起きる」
「では ジホをどうするつもりだっ!」

「落ち着け!」 

 

獅子の如き咆哮が あたりの空気を震わせた。

吹雪のように荒れ狂うスジョンも さすがに 動きを止めて見つめる。

御大は にらむ水晶の視線をとらえて 顎でうながす。
指し示す先には 小此木中佐が 真一文字に口を結んでいた。

 

・・・ジホは・・助ける・・・

御大は 水晶の耳元へ 囁いた。
「だから信じてここで待て。 わかったな?」


鷹を放つ武将の如く 御大が腕を一振りした。

スジョンが 今一度眼をやった時 中佐の姿は消えていた。 
 


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