16 水晶妃-氷と狼の物語-第16話

 

siusyo.jpg

 

 

報道管制が敷かれていることを思えば その報せは 

驚くほどの迅速さで ジホのもとへ届けられた。

情報の価値が 今ほど認識されていなかった時代。
ジホは 事業に役立てるために 驚嘆すべき情報網を作り上げていた。

 

『東京が 焼けた』

たった一夜の爆撃が 日本の首都に壊滅的な被害を与えたのだという。

一国の首都。 東京ほどの大都市が・・壊滅?
空襲もまれな外地にいる身にとって それは 幻のように思える。

知らぬ間に拳を硬く握り ジホは 唇を噛んでいた。

 

「日本は 負ける」

情報を集めだして以来 ジホの予想していた未来が 現実になりかけていた。

日本の敗戦。 それは取りも直さず 朝鮮半島が
35年にわたる他国の統治から 開放されることを意味する。


・・それは 「開放」になるのだろうか? 

日本の統治から 次は米英へと 支配が変わるだけかもしれない。
「或いは中国か ・・ロシア」

この国は 球技場の真中へ置かれ 奪い合われる球になろうとしていた。
運命の神は試合開始のホイッスルを 今にも 頭上で吹こうとしている。

護れるのか?  狼は 荒い息を吐き あらゆる状況を考えた。

水晶が 動乱の波に飲まれて沈むことだけは 絶対に避けなければならない。

 


ジホの動きは早かった。

嵐のように指示を飛ばして 事業被害を 最低限に抑さえようとした。
彼の地に暮らす同胞に 援助の手も差し伸べねばならない。

ひっきりなしに伝令が出入りし 執務室の電話が鳴った。


使用人達の眼に映るジホは あきれるほどに揺るぎなかった。

常には 端整で たおやかにさえ見える美青年は 
重大な局面に立たされると 迷いなく イ家の采配をふるうことが出来た。


インスクは 王の如く全てを動かすジホの統率ぶりを見て

あの時 亡き旦那様が拾って来た野犬は イ家の守護神だったと感嘆した。

——-

 

その夜半過ぎに 御大が ふらりとやってきた。


「・・瀬尾様が?」

「はい。 随分 お疲れのご様子です」

 

玄関番から聞いたジホが 玄関先へ迎えに出ると 
供も連れずにやってきた彼は ほっとしたような笑顔を見せた。


「・・・飯を 喰わせてもらえるか」

近頃 少々多忙でな。 うまい飯を喰っておらん。
「夜分に申し訳ないが 何か喰わせてくれ」 

御大の声はいつものように 悠然として聞こえたが 
少しやつれたその顔には 疲労と 苦悩がべっとり貼りついていた。

 

「ようこそ お越しくださいました」

ジホは 胸に手を添えて 深々とした礼をした。
その美しい青年の姿を 御大は 黙って見つめていた。

「どうぞこちらへ」


食事の支度が整うまで 杯を傾ける中将に ジホは 自ら酌をした。
「座敷につく者を 下がらせてしまいましたので・・」

「ああ かまわん。イ家のジホに 相手をしてもらうのなら光栄だ」

 

静まり返った深夜の座敷に とくとくと酒を注ぐ音が鳴った。

黙って杯をあおる御大を ジホは 気づかう眼で探った。


眼前にいるこの人は 今 どれ程の修羅の中にいるのか。

この家の采配を負う狼には 
自分より 遥かに多くの責を負う 御大の苦悩に胸が痛んだ。


「ご膳が 整いましてございます」

襖の向こうから給仕が告げ しずしずと足付膳を運んで来た。
目の前に置かれた膳を見て 御大は息を飲み込んだ。

 

「・・・・」

つやつやと 炊きたての飯が立っていた。

椀には豆腐の味噌汁が 温かな湯気をあげていた。
鰆を焼いた皿の横には 
どうやって間に合わせたものか 和風の香の物が添っていた。

「ジホ」

「無調法でございますが 閣下のお口に合うでしょうか」
・・知っていたのか?
「・・・」


はっ・・・、飯に、汁に、焼き魚だと? この中将に粗末な膳だ。

わざとのように罵りながら 御大は箸を取り上げた。
鼻の奥がつんと痛み 慌てて 椀を口へ運んだ。

 

狼め。

お前は 今まで一度として 歓迎の言葉を吐いたことが無いではないか。

そいつが今夜 あの玄関で初めて「ようこそ」と辞儀をした。


大空襲の情報を 驚くばかりの早さで知って
国を焼かれたこの私に 祖国の膳を整えてみせる。

むさぼるように御大は 湯気を吹く飯をかきこんだ。

人には決して慣れるはずのない 狼の情に 胸を衝かれた。

 

食後に出された日本茶は ため息の出る美味だった。
戦中 外地でこれほどの上級品を 入手することが出来るのか。

青磁の茶碗を覗きこんで 御大は 内心舌を巻いた。

 

「・・・お前には 令状は来ないか?」

少し心配する気持ちで 御大はジホに問いかけた。
兵力に困窮する皇軍では 前年から 朝鮮籍の者にも徴兵制をしいていた。


「まいりません」

御大の声に垣間見えた気づかう色に ジホは 薄く微笑んだ。
「情けないことに私は 兵としては役立たずでして」

徴兵検査に通りませんでした。 「丁種です」

「お前の様に 頑健な男がか?」
「昔 怪我をいたしまして 片目の視力がほとんどありません。腎臓も1つです」
「な・・んと。 そんなに 酷い怪我だったのか」

「?!」


ひくり とジホが身構えた。

柔らかな空気は瞬時に凍り 細くした眼に警戒が浮いた。

突然牙を剥いた狼へ 御大は鷹揚に笑いかけた。
子どものようにくったくのない笑顔。 ジホの 目元がわずかに揺れた。


お前ほどの殺気を放つ者を 調べずにおく訳にはいくまい?

「・・・」
「私と小此木しか知らぬことだ。 許せ」
「・・・」
「許さぬと お前の眼のことを 水晶にばらすぞ」
「!」


「やっぱりな。お姫様には 何一つ心配させぬつもりなのだろう」

呆れる程の 忠義者だな。
「・・・」
「望むべくは お前の様に生きたいものだ」
「?!」


はっはっは・・
陽気に笑う御大を 睨みつけていた狼は 諦めたように緊張を解いた。

結局のところ この中将は にらんだとおりの人物だった。

 


私はな 開戦に反対だったのだ。

「それが為に 疎まれてな。外地に追いやられたという訳だ」

夜も更けて 戸外は冷えていたが オンドルの座敷は暖かかった。
御大は ジホに語るとも独り言とも思えるような かすれ声で囁いた。

 

戦況予測がどうあろうも 闘うと決した以上は 身命を賭す。

「だがなあ・・」
敗色の見える戦地へ 若い部下を送る将の気持ちは 忸怩たるものがあるのだ。

「ジホ」

「・・・」
「日本は 負ける」
「!」

この地にも 動乱の時がやってくる。
「潰されるな。 お前の大事な姫様を 何としても護ってやれ」
「瀬尾さま・・」

 

お前はな。 私にとっての”英雄譚”だ。

玄関に立った中将は にんまりとして振り向いた。


邪魔をした。 まことに美味い飯だった。
そう言うと 敗戦に向かう中将は 振り向くことなく車窓に消えた。

——-


戸締りを確かめ 執務室へ戻ったジホは 積まれた書類を読み始めた。

しばらく文面を追ううちに 背中に小さな物音を聞いた。

振り向くと 寝間着の上にガウンを重ねて
スジョンが 不思議そうな顔をしていた。


・・・ジ・ホ?・・

「姫様・・。 どうなさいました?」
「厨房が ずいぶん騒がしかったのでな。 誰か来ておったのか?」

にこやかに傍へ寄ってきた水晶から ジホは そっと眼をそらした。

パジャマの広い襟からのぞく 華奢な首筋に眼が吸いこまれた。

 

「瀬尾様が・・お見えでした」
「閣下が?」

なんだ それなら会いたかった。 スジョンは残念そうに言った。
今度日本を撮った写真を 見せてくれると言っていたのに。

「閣下から 私にと預からなかったか? ・・写真?」
「・・・」
「銀座のな」

 

言いさしたスジョンの声が消えた。

限界を超えたジホの腕が スジョンを胸に引き込んだ。

「ジホ?」
「・・・」
「?」


銀座は 今や ありません。

焼き払われた彼方を思って ジホは 言葉を無くしていた。
御大の国を焼いた火は この地を焼くこともあるだろうか。

“潰されるな。 お前の大事な姫様を 何としても護ってやれ”

御大の声が 胸の中から消えなかった。
離せば護れないとでもいうように ジホは スジョンを包んでいた。


ジホは 何かあったのか?

事情を知らない水晶は あどけなく首を傾げていた。

 

 

sign_boni.gif

 

 

 

 

 

 


 ←読んだらクリックしてください。

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*