08 水晶妃-氷と狼の物語-第8話

 

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事業報告にやってきた男は 脂汗をかいていた。

目玉を落としそうなほど大きくむいた眼で 必死に視線をそらしている。

 

「さくさく・・作付け面積が、ぜ、前年に較べげ、げ減少しておりまして」

「随分働き手を取られたからね。 栽培に手が要らず 軍に徴収されないような雑穀を
余剰地や田の隅に植えて 農民達の食を守るようにしなさい」
「は、は、はい」

“・・・これでは 眼でも合ったら 失神しそうだ”

ジホは 沈鬱なまつげを伏せて 眼前の男に同情した。
事務の男は まるで数字にすがるように 帳簿を凝視し続けた。

 

「・・・・・・」

応接室の上座には 先刻から スジョンが座っていた。
つんと冷ややかな 凄みある美貌が 氷の瞳で見つめている。

どうして水晶妃がここにいて そればかりか 自分をじっと見るのか。
混乱し切っている男の狼狽を ジホは気の毒そうに見た。
 “笑わぬからな 姫様は。 あれで ご機嫌は悪くないのだが・・”


「・・・姫様・・」

「うむ」

「お目通しが済みましたら こちらはもう よろしゅうございます」
「良いか」
「・・・どうぞ」


ジホはすらりと立ち上がり スジョンが席を立つのに合わせて 椅子を引く。 
先を歩いてドアを開け 振り向きざまに囁いた。

―些事は どうか私に お任せください―
―そうか-
―あの者に 今少し ご愛想よくなさいますよう―

 

愛想・・。 水晶は ひとつまばたいて 言われたことを考えた。

男は 飛び跳ねるように椅子を立ち 女主人の退出を見送っている。


「それでは・・ よしなに頼みます」
「!!!!」

ふわり・・・ 氷の瞳がいきなり溶けて 紅い唇がほころびた。
艶やかな大輪が咲くような笑みに 事務方の男は 呼吸を止めた。 


「愛想良く」とは これ位かと考えながら スジョンは部屋を出て行った。

・・やれやれ あれでは「誘惑する程」であろうに。
まったく加減をご存じない方だと ジホは 呆れた息を吐いた。

 

「突然で 驚いただろう?」 

家督を継がれたばかりなので 諸事 お珍しくていらっしゃる。
「それでは続けよう。作付けに関してだが ・・・・?」
「・・・・・・・・・」


ふん と鼻を鳴らして ジホは手元の報告書類を閉じた。

上の空で呆ける男に 指示を出しても仕方が無かった。

—–

 

書斎へ戻って来てみれば スジョンが 不機嫌に座っていた。

ジホは 冷ややかに眉を上げ 書類仕事に取り掛かる。


「私を邪魔扱いしおって。 せっかく仕事を見覚えようと思っておるのに」
「仕事は 女学校を終えられましたら 徐々に指南いたします」

内心は 懸命に当主になろうとする 幼い努力に微笑みながら
ジホは邪険な物言いをした。
もう少しだけ水晶には 無邪気な時間をやりたかった。

 

「姫様は ご学業を修めることが先です」

「だが 学校に行っても 授業らしき授業が無いじゃないか」

近頃は 慰問か勤労奉仕の縫い物が 女学校の授業の大部分だった。
戦局は次第に悪化しているらしく 
砲火の届かない外地でも 次第に締め付けが厳しくなっていた。

「・・左様ですね」

 

ジリリリーン・・!


柔らかな時間を切り裂くように 突然 机上の電話が鳴った。
困惑げにジホが 手を伸ばした。  誰だ・・・?

ジホは 勘の鋭い男だった。

電話が鳴る時。 受話器を取る前に 架けて来た者を察することも珍しくない。
だがこの時だけは ふいを突かれた。 それ程 唐突な電話だった。

 

“多忙中にあいすまんな。 総督府の 瀬尾というものだ”

「・・せの・・お・・・」

「!」  ・・瀬尾中将閣下。 ご本人様であらせられますか?
“そんな所だ。 ご亭主はおられるか?”


陽気に響く電話口の声に 狼は 思わず肌を粟立てた。

瀬尾中将。 陸軍大将荒磯国昭を総督に置く 朝鮮総督府で
第二の席を占める高官として 有名とどろく存在だ。
並の者なら返答することすら 怖れ 臆したに違いない。

それでもジホは 瞬時に気を取り直し 静まりかえった声で問い返した。


「当主はおりますが ご用件を お伺いしてもよろしゅうございましょうか?」


電話の向こうで 中将は 満足そうな笑みを浮かべた。
慌てもせぬ か。

“・・お前が イ家のジホだな?”

「はい」
“飯をなぁ。 喰わせてもらおうと思ってな”
「・・は?」

聞くところでは そちらは 外厨房に関わる族譜だと言うではないか?

“腹が減っては戦が出来ぬからな”
ぬしが自慢の宮廷料理を いっぺん喰わせて欲しいと思ってなあ・・

「・・・・・」

思いもよらない相手の出方に 狼は戸惑い 眉をひそめた。

理屈を立てて 無理を押しつけてくる相手なら 論破するのは難しくない。
だが 「お前の家の 自慢料理を喰わせろ」などと言う
率直極まりない要求を 撥ねつけるのは難しかった。

 

「・・・・」

穏便な言葉を捜しあぐねる ジホの前へ すっと白い手が伸びた。

眼を上げたジホは 眼前の スジョンの姿に絶句した。
切れ長の眼が ひたむきにこちらを見つめている。
それは今まで 狼が 見たこともない表情をたたえていた。

「私が出よう。 代われ」

 

いいえ 姫様 今しばし・・。 狼は 小さくかぶりを振った。
「代われ ジホ。 私への電話だ」

どうして受話器を渡したのか ジホは 自分をいぶかしむ。
凛と見つめる水晶の瞳に 惑わされた心地だった。


「お待たせいたしました。 当主の晶にございます」

スジョンは息づくように小さく 相手の言葉にうなずいていた。
まじまじと それを見守る狼は 予想する展開に恐怖した。


「・・・承知いたしました。 お越しをお待ち申し上げます」


姫様! 
噛み付くようなジホの視線を スジョンは 静かに見返した。

しかし その眼が見せた決意の強さは 狼の怒りを抑えつけた。


——

 

お茶をささげて 書斎のドアを開けた侍女が 
入るやいなや すくみあがり
取り落としそうに盆を揺らしながら ほうほうの体で退いていった。


「・・・・」

「・・・・」


「何ということだ。 何故 ご承諾されました!」
「ジホ」
「お断りする言い訳なぞ いかようにも作れます」
「ジホ!」


・・分かっているのだろう? 

「逆らい切れる 相手ではない」
スジョンの声音は落ち着いており その柔らかさが ジホを苛立たせた。

「この上 尚も抗えば お前が反日のそしりを受ける」
・・・馬鹿なことを。 ご心配には及びません。
「お前が 憲兵に引かれでもしたら 何とする?」

「私のことなど どうでもよろしいっ!」
「だめだっ!!」
「!」


それでは ジホ 答えろ。 

「今 お前を奪われたら・・・私は やっていけるのか?」
「!」
「お父様から託された イ家は お前が無くて成り立つか?」
「・・・・」

私は 何の力も持たない 非力な小娘に過ぎない。
「ジホがおらねば・・・生きられない」

 

スジョンはまっすぐ眼を上げて ジホを正面に見据えていた。

今までジホは 人をにらんで気圧されたことは 一度しかない。
親父様。  目の前にいる水晶の 父親と会ったその時だけだった。


それが今 わずか17の水晶に 確かにジホは気圧されている。

 


「なぁ・・ジホ」


中将殿はな  飯を喰いたいと申された。

「・・・お父様なら 何と申したと思う?」
「!」
「非力であっても 私は当主だ」

イ家が 連綿と伝えてきた 家の想いを守りたいのだ。 
「・・姫様」


お父様は 人をもてなすのが好きであられた。
飯時 屋敷の周辺に 腹を減らした者が居ることさえ嫌がるほどにな。

「お父様なら 飯を食わせろと言う者を 決して拒まぬとは思わぬか?」
「・・・」
「イ家の当主の対応として 私は 間違ごうているか?」

答えろジホ。 相手が誰であろうとも もてなすことがイ家の本領ではないか?
「・・・はい」


ですが 恐らく先方は 姫様の挨拶を所望しましょう。

「かまわない」
「!」
「どうぞお召し上がり下さいと お進めするのは もてなす者の務めだ」
 

客に挨拶をするだけだ。 殿方なら 普通にやることだ。
不義不正でないならば 女子でも何の恥じることがある。
「女子ながら 私が当主になったのだから」


水晶に 狼は 言葉を返せなかった。 

スジョンを護る。その事だけを大事に考えていたジホに対して 
幼いながらもこの当主は イ家としてどうあるべきかを突きつけていた。


・・・なあ ジホ? 

「いくら日帝と言えども いきなり取って喰いはすまい?」
「・・・・」
もしも相手が この小娘を 取って喰らうつもりならば・・

「イ家の面目が汚されるようなら その手で ジホが私を殺せ」

「!!」

——

 

「・・・・」

しばらく沈思した後で 狼は 静かに微笑んだ。
自分が護っているものは これほどまでに見事な宝石だった。

この水晶が 自分で行く道を決めたなら 自分は従い護るだけだ。


「姫様」

「・・うむ」
献立は いかがな様に整えましょう?
「!」

「先方へ お嫌いな物を伺わねばなりません」
「うん! うん。そうだなジホ」

姫様はご挨拶のお作法を さらう方がよろしいですね。
「イ家の当主は行儀悪と どうぞあなどられませんよう」
「な! ・・私だって やれば出来る!」


馬鹿にするなと 水晶が 愛らしい頬で責めていた。

ジホは冷笑でかわしながら 虚空の敵を 見つめていた。

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