02 水晶妃-氷と狼の物語-第2話

  
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スジョンの去った中庭には 花の香りが残る気がした。

少女が見せた愛らしい怒りは しばらく 狼を微笑ませていた。


気を取り直して周囲を見る。 薪は あらかた割ってしまって 
これなら腰を痛めたガンホ爺も 当分は楽が出来そうだった。

ジホは斧を取り上げて 薪小屋の中へしまいこんだ。
荒くれた刃物を手放すと 青年の端整さは匂い立つばかりで
彼が 斧を持つ姿など もはや想像すらも出来なかった。

 

はは・・・

愉快そうな声が背中に聞こえて ジホは 静かに笑みを引いた。
屋敷の窓が半分開き 年配の男が姿を見せていた。
「また ぴしゃりとやったものだな」
「旦那様」


「”親父”と呼ばぬか。 私は お前を使用人と思ったことは無いぞ」
「・・・・」
スジョンに あんな風に言えるのはジホ位なものだ。 さぞや怒り心頭だろうて。
「申し訳ありません」

わがまま娘には良い薬だよ。 少女の父は 満足げに言った。
主人が浮かべた笑みの力無さに ジホは 胸をつかれていた。

 

「・・親父様は 起きておられてよろしいのですか?」

さりげなく言ったつもりが 心配そうな声音になってしまい
ジホは そっと唇を噛んだ。 
目の前の人は この狼が 唯一従う存在だった。

 

「今日は 加減が良くてな」

だがなぁ・・身体を起こしてはみたが 私もすっかり筋肉が萎えた。
努めて陽気に言うものの 主人の衰弱は明らかで
ジホは 決して気取られぬほどに 目元を歪めた。

「充分にご養生なされれば 回復いたしましょう」
「・・ジホ」
「はい」
「お前に嘘を言わせるほどに 私の病気は進んだか?」

「!」


まじまじと 主人と狼は眼を合わせた。

それは 2人が知り合った8年前の日以来だった。

——

 

“やめろやめろ!まだ子どもではないか! 殴り殺すつもりかっ!”


袋叩きにされていたのは 14歳の泥棒だった。

あまりにも見事な手際の良さに 名のある盗賊団と思った主人が
腕利きの警吏に追わせたところ 捕まったのは少年だった。

 

“罠にかかった野犬か・・”

ぼろぼろに殴られた少年に スジョンの父は笑って言った。
殺せばいい。 投げやりなままに居直るジホに イ家の主人は大笑した。
“こいつは 野犬でのうて狼だな。 大した面構えをしている”


連れて帰るぞ。

主人の言葉に警吏達も 下男も 当の本人もがあ然とした。
狼は必死で抵抗しようとしたが 骨が 数ヵ所折れていた。

——

 

「ジホ。 私は 永くないのか?」

「・・・」


じっと見据える大恩の人に ジホは眉を吊り上げて冷笑した。
「親父様ともあろう方が 気鬱になられましたか」
「・・ぇ?」

「治る病を 弱気に囚われて長引かせていますな。 まったくいつまでこの書生に
仕事を押し付けて楽をなさるおつもりか。 人使いの荒いことだ」
「・・随分な口を聞くじゃないか」
「お陰様で 下賤の出ですから」


はっはっは・・・!!

つかの間 ジホをねめつけた主人は 弾けるように大笑した。
笑い声に先刻より力があるのを聞いて 狼の口元がわずかに緩んだ。
「で・・スジョンはどこへ行った?」

「?!」
「めかしこんでいたみたいじゃないか?」
「平倉洞の ・・叔父貴様の屋敷へまいられました」
「そうか」

納得してうなずいた主人が 乾いた咳を2つした。
それを聴いた狼は ほんの一瞬 心配の色を頬に浮かべた。

 

主人に礼をして背中を向けるジホの眼が 引き絞るように細くなった。
足早に廊下を行く頃になると 彼の瞳は凍っていた。
「インスク!」

斬るように飛んだ狼の声に 侍女頭のインスクは飛び上がった。
「ジ・・ジホ」

「何故 姫様は平倉洞へ行くことになった?!」
「え、あ・・それは。 叔父貴様から電話で お誘いが来まして・・」
「親父様にも 私にも通さずに取り次いだのか!」
・・・ぁ・・・・


言葉を呑んだ侍女頭の後ろで 使用人達が青ざめた。
普段 物静かなこの青年が 怒る時の苛烈さは既に伝説だった。

「す・・すぐ お迎えにまいりますから・・」
常には怖いもの知らずの侍女頭が 息子よりも若い書生に震え上がる。
「私も行こう」

全身から青い焔を立てたジホは 低く 抑えた声で言った。

——


「・・・・・」


平倉洞の家の応接間は 西洋風にしつらえられていた。

ふんわりと チマを広げて長椅子に座るスジョンの姿は
まるで良く出来た人形のようだと 叔母は 姪を盗み見た。


「・・お義兄様のご容態は この頃いかが?」
「ご心配をお掛けしていますが 小康でおります」
「そう・・」

ふっさりとした前髪が 白磁の肌にかかっていた。
柔らかく 長いまつ毛がまばたくたびに 空気までもが揺れる様だった。

なんて眼かしら。 

口数の少ない姪を前に 叔母は 鼓動を乱していた。
磨き上げた黒曜石に似た瞳が じっと こちらを見つめている。
口元は薄く笑んでいるのに その美しさは氷のようだった。


「叔母様」

「え?! ・・えぇ・・」
「叔父貴様は ご多忙ですか?」

呼びつけられて来たものの 一向に顔を出さない叔父を
スジョンは不思議に思っていた。
急ぎの用ではないようだけど・・。 「出直してまいりましょうか」


あ、いえ。 ちょっと席を立ちにくいお客様がいらしていて・・
「そうだわ! スジョンもご同席なさいよ」
叔母は かねてからの打ち合わせで 命じられた通りの事を言った。

「私が?」
「えぇ。 お客様は総督府の方で 宮廷料理にご興味がおありなの」
「・・そんなお偉い方に 私ごときがご挨拶するのはお門違いでございましょう」


取りつく島もない風に 少女は誘いを退けた。
この高慢な姪を扱うことは 気弱な叔母の手に余った。
「で、でもその方。 『外厨房』の事を聞きたいと仰っておられてね」

ぴくり とスジョンの頬が動いた。

イ家はかつて『外厨房』―パク・ジュバン―(宮廷の正餐料理を作る部署)
の長官を務めた家柄だった。

「貴女のお家のことじゃない」
「・・・でも 私など・・」
「いいえ、いいえ! お客様も 貴女が顔を出せば喜ぶと思うわ」

 

何とか 役目を果たせそうね。
腰を上げたスジョンを見ながら 叔母は胸を撫で下ろしていた。
しかし 応接間を出る前に 下女が慌ててやって来た。

「・・奥様。ご本家から お嬢様の迎えが参りました」
「迎え?」「家から?」
「あの・・・ジホ様が ご一緒です」
「!!」


玄関先に出た女主人は ひそかに肌を粟立てていた。

彼女を怯えさせたのは 戸口でお辞儀をしている侍女頭ではなく
後に控えて眼を伏せている 大人しやかな青年だった。

「・・インスク? どうした お前が迎えなど」

「申し訳ございません。 お嬢様には 早々に屋敷へお戻り頂きとうございます」
「何故だ? お父様がお悪いか?」
「いえ・・あの」

 

その時 狼が眼を上げた。

とても静かな動きだったが 叔母はびくりと半身を引いた。

スジョンは 真っすぐジホを見据えて 
無表情な瞳の中に 彼の警告を見て取った。
「叔母様・・。申し訳ありませんが 出直すことにいたします」

「ぁ・・、え・・ぇ・・」
「叔父貴様には よろしくお詫び申し上げてください」
「え? ぇえ・・」


今や この家の女主人は 冷たい汗をかいていた。

決して狼と視線を合わせまいと 無理矢理 スジョンへ笑いかけた。

—–

 

「スジョンが帰っただと?!」

平倉洞のイ家の主人は 眼を剥かんばかりに驚くと
ビクビクとした卑屈な眼で 上座の方を振り返った。
そこに座る客人は 佐官の肩章がついた軍服を着ていた。
「・・どういうことだ?」

「そ、それが どうにも。 おい! 何でスジョンは帰ったんだ?」

本家から 戻るようにと 急の迎えが参りまして・・
すくみ上がった女主人は 消え入りそうな声で言った。
「・・・使いに ジホがついてまいりました」
「!!」


ジホの名を聞いた途端 主人は ごくりと喉を鳴らした。

「なんだ。 それでは 今日は水晶妃を見られんのか?」
軍人は いらいらとした声を出した。
「すみません黒木様。 本日は どうも手違いがあったようです」


またいずれの機会に。 主人は客に そして自分に 言い聞かせる。

無垢にきらめく水晶の前に 牙を向いて立つ狼が 見えた気がした。


——

 

車中の 侍女と運転手は 固まった息をそっと吐いた。

氷の眼をして助手席に座るジホは 真っすぐ前を見つめていた。

 

車はソウルの市街地を 急ぐでもなく走り抜ける。

朝鮮総督府が 国家総動員法を発令して3年。
往来を行く群衆には ゲートル姿が目立っていた。

ジホは静かに視線を流すと スジョンの美しいチマチョゴリを見た。
「・・なぜ そのお召し物にされました?」


叔母様が 綺麗にしておいでなさいと言ったのだ。
「悪いのか?」
「いけませんな」 
時節柄 無用に派手な装いは 不謹慎のそしりを受ける危惧があります。

「だいたい不用意に姫様へ電話を取り次ぐなど とんでもない事だ。インスク」
「も、申し訳ありません」
「インスクを責めるな。 私が叔父貴様から直接呼ばれたのだ。行って何が悪い!」


「姫様・・・」

ゆっくり ジホの頬がまわり 後部座席の侍女は引きつった。
刃の如き眼ざしと 氷の瞳の 
斬り合う火花が 見えるようだった。

「例え叔父貴様であろうとも 本家のご長子を呼びつけることはできません」
イ家の姫が ふらふらと誘い出されて良いとお思いか。

「ジ・・ジホは 侍女を連れて車で行けと言うたぞ!」
親父様のお申し付けと思っておりました。 
「以後は 充分に気をつけましょう」


つんと話を断ち切ると ジホはそれきり振り向かなかった。
少女は 柳眉を逆立てて 冷ややかな背中を睨みつけた。

「お前は 私の守り役などせぬと言っただろうっ?!」
「・・・・」
「私だって ジホの言う事など聞かぬからなっ!」
「・・・・」


愛らしい唇を尖らせて スジョンは不平を言っていた。

珠を転がすような声を 狼は ゆったりと聞き流した。
 

 

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