42 水晶妃-氷と狼の物語-第42話

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停戦後。 戦いの痛手から身を起こし 動き始めた財閥は 
利権や事業上の優位を求めて 政府や主要機関にすり寄り始めた。


連綿と続く癒着の構造。 

その中で唯一 イ家の狼だけは 独自の姿勢を取り続けていた。


卓越したジホの能力を 欲しがる者は多かった。

政府や軍の実力者達は 彼の頭脳と先見の明を 
手中の駒として手に入れたいと こぞって望んだ。

 

しかし ジホは政府や軍部に 礼節を尽くして協力しながら
いかなる利権を望むこともせず 慎重に距離を置き続けた。

“権力から蜜を吸う者は 権力の言う事を拒めない”

狼は それを怖れていた。 彼には護りたいものがあった。

 

スジョンを玉座に座らせる堅固な帝国を ジホは 作ろうとしていた。

標的になるほど巨大でなく 他に飲まれるほど弱体でもない。
磐石で 健全な屋台骨を持ち 悠然と誰からも自立してゆける。

イ家をそんな存在にする。 それが 狼の狙いだった。


日帝の前へ なすすべもなく彼女を立たせた日のことを
ジホは決して忘れていなかった。

愛しい宝石を もう二度と 権力の波浪にさらしたくはなかった。

 

自分にもしもの事があっても スジョンが安んじて生きてゆけるように

ジホは細心の注意と情熱で イ家の事業を組み上げて行った。


——–

 

「イ家の主人」


軍人らしい 野太い声に呼び止められて ジホは静かに振り向いた。

相手は ジホのすらりと伸びた背筋と端整な笑みに感嘆した。
体格の良い男など見飽きるほどに知っているが この男の美しさは別格だ。


「これは大佐。 ご機嫌うるわしゅう」

「まったく・・。 貴君はそうしていると 呆れる程の美男だな」


「お褒め下さるためにお呼びでしたか?」
「いや。 ・・イ家は 件の資材入札に加わらないのか?」
「はい」

「今回の決裁権は私にあるんだ。 その・・、便宜をはかってやれると思う」

 

ふわり・・・


ジホは まるで春昼の花を愛でるように微笑んだ。

閣下にはいつも 身に余るお気遣いを戴きまして 心より感謝いたします。


「ですが大きな仕事を受け 軍のお力になれるには 弊社は微小過ぎるようです」
「馬鹿なことを! 貴君なら 他の誰よりも見事な仕事をしてのけるだろうに」
「身に余るお言葉ですが 買いかぶっておられます」

くすりと ジホは柔らかく笑い 即座に話題を他へ移した。


差し出される砂糖に眼もくれず 独り 野を駆ける優駿か・・。 

大佐は諦めの悪いため息をついた。こういう男をこそ 欲しいのだが。

 


「・・ところで 貴家の厨房は 随分と料理人を輩出しておるな」

「恐れ入ります」

「イ家門下と言えばいずれも名人らしいが 今 食べに行くなら何処だろう?
 小生 来月要人接待のお役目を上から申し付かっておるのだ」
「・・左様ですか」

「済まぬが 2、3候補を挙げておいてくれ」


——-


誰を紹介したものか。

ジホは ぼんやり考えていた。

候補はいくらかすぐに挙がったが イ家の厨房を離れて以降
料理人たちが 以前と変わらぬ水準を維持しているかが不明だった。

 

・・・ジホ・・?・・

「!」


甘えるような呼びかけに ジホは大きく眼を開けた。
いつのまにかスジョンが側に来て 何ごとかねだる眼差しで見ていた。

「どうなさいました?」
「うむ。 あのな・・」


貴子の家へ行っても良いか? 無事を祝う会をしようと言っておる。

「ああ・・、貴子様のお宅もご無事でしたか」

「いや。 家はやられて全壊したそうだ」
「?!」
「お蔭で新たに屋敷を建てて 舅様達と別住まいだと大喜びでの」

ふ・・・ 

 

相変わらずの貴子の話に 思わず笑ったジホの視線は 
スジョンを捕らえて 立ち止まった。


イ家の味の真髄を 誰より正確に知っている人。

スジョンは 生まれた時から外厨房の味を 家常の菜として味わってきた。


・・・あの・・

「うん?」
「姫様。 貴子様とは 『梨香苑』でご会食なさいませんか?」
「チョンファンの店か? 貴子と外食して良いというのか?」
「ええ」

「それは 嬉しいな!」
「?!」


貴子には以前より 頻々と外出に誘われておったのだと 
スジョンは ひどく嬉しげに言った。

一瞬 ジホは たった今言った自分の言葉に不安を覚えた。

それでも スジョンが喜んでしまった以上 前言を覆す訳には行かない。
結局のところ この忠義な狼にとって 水晶の笑顔は絶対だった。


「・・お席はご用意しておきます。供を連れてお行きなさいませ」

 

 

その日 韓食の名店『梨香苑』は ちょっとした騒動になっていた。


店の主人が 大汗をかいて揉み手せんばかりに案内する後から
スジョンが店内を歩いてゆくと 誰もがその美貌に仰天した。

冷たく笑わない大きな瞳を見て 「水晶妃だ」と 誰かが言うと

個室に納まった客までが出てきて スジョンの姿を見ようとした。

 

「わぁ・・すごいわね 晶さん。 まるでスターが来たみたい」

「私の様な者が出歩くのは 珍しいのかな。 慎みがないと言われまいか」
「そんな事ないわよぉ。 未婚の娘ならいざ知らず 晶さんは立派な奥様なんだし。
 観劇でも お買い物でも どんどんお出になればいいのよ」

まったく堅物「鬼軍曹」と来たら 姫様大事で閉じ込めっぱなしなんだから。
そんなことじゃ 晶さん 世間知らずになっちゃうわよ。

「そうかな・・」

 


やがて料理が運ばれて 食事がかなり進んだ頃

大きな身体をすくませて 厨房の料理人が挨拶に来た。


「ひぃ様・・いえ あのご当主様。 とんだご無沙汰をしております」

「あぁ チョンファン・・久しいな! 元気でおるようで何よりだ」
「はっ、ひぃ様もお健やかで」
「うむ♪」


料理人は 久しぶりに会った主家の姫の 圧倒的な美しさに気をのまれつつ
心配そうに卓上を窺い 箸のつき方をおずおずと探った。


「・・ひぃ様はタンピョンチェがお好きでしたが あまり 進みませんね」
「あぁうむ。 ・・許せ」

「お口に合いませんでしたか?」
「んむ・・いや。 今日のタンピョンチェは 油が少しくどい」
「!」


「あ! いや お前の腕のせいではないぞ。・・これは胡麻油が良くないのだ」
「!!」

「良い材料を使うなら良い調味料を使わねば お前の腕が泣くぞ」
「・・・・は・い・・・」

 

 

「店を移った?!」

数日後 ジホはあんぐりと口を開けた。

久々に来訪したチョンファンは 迷いの吹っ切れた顔で晴れやかに笑った。

 

「ひぃ様にぴしりと言われまして わっしは死にたくなりましたよ」

材料費を渋り 利益を出そうとする経営者の方針に不満だった彼は
スジョンに胡麻油の質を言われて 店をやめる決心をしたという。


「今度雇われた店の主人は その点 質にこだわってくれますから。
 あの・・それでお願いが。 今度の店へ もう一度ひぃ様に来てもらえませんか?」
「?!」
「ひぃ様は イ家の味の審判だ。是非お願いします!」

「・・・・」


——–

 

「・・『白鳳閣』?」


逞しいジホの胸へ腹ばいになって スジョンは きょとんと眼をしばたいた。
ジホは一体どうしたのだ。 何だか 憮然としておるな?

「先日は チョンファンが移った先だったろう? 今度は誰の店だ?」
「ヒョンジェです」
「まぁ 食事に行くのは構わぬが・・」

 

スジョンは不思議そうな上目づかいで 機嫌の悪いジホを見上げた。

常ならば 横たわるジホへ這いのぼれば 優しく笑って撫でてくれるのに。


「人妻が 頻繁に外食するのは 聞こえが悪いと思われないか?」
「貴女が門下の者の店へ行くのは 遊びではありませんから・・」

料理人達は 自分達がイ家の味を守れているか 視て欲しいのです。


・・・それだけではない。 ジホは 苦々しく歯噛みした。

スジョンが味見に訪れた店は どうやらその後 客足が増えるらしく
イ家門下の腕自慢達から 我も我もと来店依頼が殺到していた。

 

ジホは 内心後悔していた。

自分がうっかり 水晶を外に出すような事をしたからだ。

他の事なら 決して彼女を利用させたりしないしないのだが
「イ家の味を視てくれ」と言われると むげに断る事は難しかった。


胸にもたれるスジョンの髪を ジホはそっと指で梳いた。

顔にかかる艶やかな髪をすくって肩の向こうへ流すと
肩先の肌がなめらかに光って ジホの口元をほころばせた。

 

「のぉ。 ジホも 一緒にくれば良いのではないかな?」

「いえ・・私は」
「お前が来れば 私は“旦那様に連れられて来ている妻”なのに」
「・・・」


それが また問題なのだ。 ジホはそっとため息をついた。

出来るものなら 彼女の出先へ供として行きたいのはやまやまだった。 


だが イ家から巣立った料理人は 書生時代のジホの先輩達だ。

スジョンの夫として着いて行き 彼らに“旦那様”として遇されることなど
主家の姫を貰ったこと同様 ジホには身の程知らずに思えた。


「貴子もそう毎回一緒には来られぬから 一人で食べる事になる」

「・・すみません」
「知らぬ方が 次々挨拶に来るし」
「?! ・・挨拶とは?」

「うむ? お前に世話になっておるとか、軍部の方とか、いろいろ来る」
「!」
「心配するな。お前の仕事に障らぬよう 愛想良く挨拶しておる」

「!!!!」

 

こんな風にな。 スジョンはさも得意げに 華やかな笑みを満面に浮かべた。

鬼をも溶かすほどの美しさに ジホは がっくりと眼を閉じた。

 

 

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